ヨーク大学日本語科三学年読解教材 AP/JP3000
6.0 Japanese
Studies Program, 第十課 「ポルポトの死」 (Lesson 10: Death of Pol Pot)
カンボジアで、「血の粛正中」に二百万人もの人を殺したと言われる、クメール・ルージュの首魁のポルポトの死が報道された。その真偽は定かではないが、映画の「殺害の広野」”Killing Fields”の中で描かれた、共産主義の旗を掲げ、紀元0年を実現させようとした、狂信主義には凄まじいものを感じる。知り合いの中に、その渦中に主人と子供を殺された女性がいるが、彼女の場合は、教師であったが、無知で馬鹿の真似をして、隣人がそれをクメール・ルージュの兵士に納得させてくれたために、生き延びることができたと聞く。ヒットラーやスターリンを引き合いに出すまでもなく、人間の歴史の中で、一人の人間が、数知れない人々を死に追いやってきたし、現在でも、東欧やアフリカで殺戮が繰り返されている。また、これからも同じような悲劇が繰り返される可能性が大きい。クメール・ルージュは、知識階級と有産階級を徹底的に嫌い、殺害した。残ったのは、無知蒙昧で、恐怖に慄く民衆であった。 主義を主張する人は、概ね、伝統を廃棄して、何らかの理想郷を造ろうとする。この傾向は、宗教にもその他の様々な運動にも見られる。オーム真理教などもその例であろう。資本主義のアンティ・テーゼとして人気のあった共産・社会主義思想が、世界中で没落したことは、人間のやることには、やはり理想と現実の隔たりが大きいことを示している。何か良い処方箋がないものであろうか。「理想」は、全世界のすべての人間が、同じような環境の中で同じレベルの教育が受けられ、社会人として均衡の取れた考えや意見を持つことであるが、資本主義社会は、経済格差を要求し、理想主義的であった共産主義もその失敗で泥にまみれてしまった。どちらの陣営でも、結局今のところ民主主義のシステムが守護神として奉られている。宗教人は、心の平和を信仰に求め、無宗教人の場合は、スポーツ・コンピューター・セックスなどに仮初めの安住の場を見つけようとする。逃避と言ってしまえば、簡単であるが、これはみんなの問題である。陳腐な「生き甲斐」論に組したくないが、現代が必要とする学習量及び経験量を考えると、人生がいかに短いかに気がつく。四十歳半ばになって何とか一人前になったとしても、残りの人生は「光陰矢の如し」である。遊んでいられないなあと感じる。五十歳を過ぎると、やっと色々できるようになるわけであるが、今度は、定年が目前に迫ってくる。それでも、昔、人生五十年と言われたのに比べて、少なくとも二・三十年は平均寿命が延びているので、五十歳を過ぎても、まだかなり時間があるような錯覚に陥る。しかし、本当は、定年までの十年から十五年が、どこまで自分の力を発揮できるかの人生の勝負時であると思う。蓄えた知識と経験の上に立って、色々な仕事が、若い人より短期間に能率的にできるはずである。人間の歴史の中で、こんなに可能性も、新しい知識も技術も急速に発展した時代は稀であろう。自分としてはどこまでも貪欲的に追いかけていきたい。結局、自分の人生を振り返ってみて、最後によかったと思えることが大事であろう。先人の多くが、まったく同じことを言っているが、ポルポトは死の直前、どんな気持ちでいたのであろうか。 1998年5月 トロントにて 太田徳夫 ポルポト関連サイト: © Norio
Ota 2008 |