ヨーク大学日本語科三学年読解教材 AP/JP3000 6.0
Advanced Modern Standard Reading Comprehension 第五課「遅れた出奔」(Lesson 5: Belated runaway)
大学四年のとき、失恋した直後、内定していた会社に「事情により内定を取り消させていただきます。」というような手紙を送り、大学の事情に詳しい友人に休学手続きを頼んで、車で、だいぶ遅れた「家出」を決行。落ち着いたら、連絡するという置き手紙を残して、出奔。親にはだいぶ心配をかけたが、自分は真面目であった。誰も知っている人のいないところで一年間自活するというのが、目的であった。無党派の政治活動を含め、ちゃらんぽらんではあったが、一時は八つのクラブ活動をしていた時期があり、家永三郎教授が国を訴えた教科書検定訴訟を支援する大学代表委員をしたり、「ICU平和を守る会」などを組織したり、在日朝鮮人及び韓国人に対する差別問題に取り組んだりしていた。日韓条約締結反対のデモで、東京駅の構内に入り新幹線のホームを占拠した時、動労の組合員に、いっしょにやろうと声をかけたら、「あんたらには生活がかかっていないじゃないか。」との答えが返ってきたのが、痛切に身にしみたのだった。卒業を控えて、自分で何が出来るのか、独りで食って行けるのかと自分に問い掛けてみて、その経験のないことが一番こたえた。もちろん失恋の痛手も大きかったし、結婚を予想しての、予定してなかった就職であったので、大いに嫌気がさしていたのも事実である。にっちもさっちも行かなくなっての「夜逃げ」と言った方が当たっていたかもしれないが、意を決してからは非常に気持ちが楽になった。大学では、毎年ストの続いた時代であった。それにも嫌気がさしていた。
夜中の二時ごろそっと家を抜け出し、ゆっくり東海道を大阪に向けて走った。別に急ぐ旅ではなかったので、大阪に着いたのは、夕方近かった。さて、西も東も分からない大阪でどうするか。初めに着いたところは、日本橋、恥ずかしい話だが、大阪に日本橋、「にっぽんばし」と読む、があることさえ知らなかった。何しろ、高校の修学旅行で一度来たことがあるだけだったのである。ちょうど、恵比寿祭り、「えべすさん」と呼んでいた、の時で、界隈はにぎわっていたように思う。まず、腹ごしらえをして泊まるところを探さなくてはと、近くの中華料理屋に飛び込む。そこのマスターに、大阪は初めてなので、どこか安くてきれいな泊まる所はないか尋ねると、「ちょっと待ってな。一緒に行って上げるから。」と非常に親切な人で、えべすさんのすぐ側のビジネスホテルへ案内してくれた。今でこそ東京にもビジネスホテルなるものがたくさんあるが、そのころはまったくなかった時代である。まさに安くてきれいなホテルであった。人が親切なことと、合理的な生活スタイルにまずよい印象を受けた。その晩はぐっすり眠って、次の朝食堂で朝食を取りながら、おもむろに新聞の求人覧に目を通した。大阪に来た理由の一つは、日本第二の大都会であれば、トラックの運転手の仕事ぐらいはかなりあると思ったからである。はっと目にとまったのが、「日の出運送」という名前であった。実は、夏休みに、東京の八丁堀で働いていたのも「日の出運送」だったので、これも何かの縁と早速電話をかけることにした。「日の出運送」という名は日本全国には掃いて捨てるほどあるのだが、何か運命のいたずらを感じた。
電話をかけて、社長に、ありのままを話し、学生で一年しか働けないが、と言うと、すぐ面接に来いとのこと、場所を聞いて早速出かけることにした。行ってみると、そこは旭区にある京阪の森小路駅の近くの小さな運送会社で、運転手も十人ほどしかいないようであった。社長は苦労人で、話を聞いて、すぐ雇ってくれ、明日から来るようにと言ってくれた。住むところはあるのかと聞かれたので、これから探すところだというと、社長の家に下宿してもいいと言ってくれたが、それではあまり甘え過ぎていると思い辞退すると、汚くてよければ、夜の電話番をする条件で、車庫の上の部屋に家賃無しで住んでいいとのこと、早速好意に甘えた。こうして、大阪での一年間のトラックの運転手稼業が始まったのであるが、自分独りで何かをしたというより、結局多くの人に助けられて、自分の我侭を通させてもらったというのが本当のところである。
1997年5月30日 トロントにて
太田徳夫 ©
Norio Ota 2008 |