Japanese Section
DLLL, York University
ヨーク大学日本語科四学年読解教材

「アカウンタビリティー」
二年前に埼玉獨協大学から、評価について話してほしいという依頼が、そこで学生部長をしている友人を通じてあった。初めは学長と食事をしながらの懇談ということであったのが、その二日前に、教職員全員に話してほしいということになって、二時間の講演会になってしまった。ちょうど次の日は、夕方から、東京で飲みながらの会食が予定されていたので、鎌倉の家に帰ったのは午前一時を回っていた。初めは、カナダの大学の事情を話せばよいと思っていたが、一応講演会となると、こちらの事情の紹介というわけにもいかないので、「構造改革-リストラと評価」というを考えていたが、どうもしっくり行かない気がしていた。依頼は、文部省から、評価を導入せよというお達しをもらったが、やり方は勝手にやれで、どうやっていいか分からないのでということだった。教員の中には、学生に教員の学識を評価させるとはもっての外という意識が強いということだった。こういう受け取り方は私にも分からないわけではないが、自分の経験では、学生の評価は自分のコースや教え方を考えるのにずいぶん役に立つと思っている。
前の晩はかなりの酒も入っていたので、すぐ寝ることにし、講演は翌日の午後四時からであったので、午前中は考える時間があるなと思った次第。翌朝目が覚めて、朝風呂浸かりながら、はっと思い当たった。「アカウンタビリティーと評価」だと。以前からなんとなく考えていたことが、急にまとまった気がして、後は割とスムーズに梗概をワープロでものすことが出来、二時間半かかる電車の中で、細かいを書き入れて行った。専門が言語学なので、意味論的な問題から入ることにした。
日本語には、アカウンタビリティーにあたる訳語概念もなく、辞書を見るとレスポンシビリティーも、両方とも「責任」になっていることが分かる。もちろん、「社会的責任」といえば、アカウンタビリティーに近くなるが、責任という言葉には、「責任を取れ」というような、誤りしでかしたときに相手をなじったり、自分を責めたりする響きが強い。どちらかというと、道義的責任という色合い濃い。これに対して、アカウンタビリティーの方は、「責任義務」とでも訳したらいいような、決められた仕事をきちっとする、何らかの決定を行う場合は、その理由方法をはっきり説明する義務があること、などの履行義務を含んだ責任である。であるから、大学の教員でも、なぜ、どんな理由で、どういう風に教えているか、というような質問を受けたら、それを説明する義務があることになる。アカウンタブルというのは元々可算可能という意味であるから、それが評価の対象になるわけである。教師が、一年間の授業内容をちゃんとこなしたか、教え方はどうだったか、試験公平だったかというような点について学生が評価を下すことになる。日本でこういう考え方が育たなかった一番大きな理由は、契約という概念が育たなかったことにあると言えよう。契約があってこそ、履行義務、成功度、失敗対する責任という考えが出てくるわけで、物事処理する過程における責任もこのアカウンタビリティーの要素となっている。日本文化では、人及び社会に迷惑をかけた時に関わってくる道義的責任という点に重点を置いているようである。アカウンタビリティーには感情の入る余地がない、義務履行・不履行の責任と言ってもよいかもしれない。骨子としてこんな話を獨協大学で二時間ぶったように記憶しているが、準備不足であったとはいえ、割合後味のよい話が出来たと思った。
後日、友人からカセットテープが送られてきて、獨協大学では教職員全員にテープが配られているという話であった。録音をしてもよいかと聞かれたのは覚えているが、まさかこんなに大袈裟になろうとは思っていなかったので、少々こそばゆい気持ちであった。翌年関係者と飲みながらの話で、課長なる人が、獨協の今のバズ・ワードは何だと思いますかと聞くので、アカウンタビリティーかと言うと、そうですとのことであった。最近、インフォームド・コンセントという表現盛ん話題になっているが、これなども、まさにアカウンタビリティーの問題であって、日本の文化に欠けていた概念を輸入したものであろう。異文化間コミュニケーションの点でも、外国文化との接触の中で、少し深いところでの相互理解が生まれているのはうれしいし、その一端を担えるのもありがたいことだと思っている。

1997年5月29日
トロントにて
太田徳夫
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