ヨーク大学日本語科第四学年読解教材
AS/JP4000 6.0 Advanced Readings in Modern Standard Japanese
Japanese Studies, DLLL, York University

「信じている者と信じていない者」Believers and Non-believers
極端単純化許してもらえるなら、この世の中には大きく分けて二種類の人がいるように思う。いわゆる「信じている」者と「信じていない」者である。前者は、宗教限らず、思想理論学説政治体制哲学など、どんな分野でも絶対的 なものとして何かを信ずる人たちで、後者は、何にしてもそういう風には考えられない人たちと言ってよいであろう。
もちろん、実際の世界では、この区分はそれほどはっきりしているわけではない。例えば、いわゆる無神論者場合を見てみよう。彼らは、神が存在しないということを主張し、信じているのではなかろうか。また、懐疑主義者も、すべてのものは相対的であるから、絶対的なものはないと、相対主義を信じているきらいがある。自由とか平和とか人権などという理想主義的概念にしても、これらを恒久的不変価値として認め金科玉条のものとして信ずるところに気付かない落とし穴があるように思える。アメリカのブッシュ政権北朝鮮とイランとイラクを「邪悪帝国」と名指しで呼んだのなど、自分たちの北米風価値観普遍的なものと信じ、世界すべてに当てはめようとした結果他ならない。中東での紛争含めて、同じセム系のユダヤ教・イスラム教・キリスト教の狂信者たちが三つ巴で、争っている様相はある意味凄まじいものがある。三者とも信じているから、始末に悪い。彼らは、絶対に後に引かないし、妥協拒むからである。確かに、アメリカの政策は、石油確保が一番大きな目的であるという説も納得できるが、それは一面だけを見ているのではないか。
信じている者とは、その対象についての対話成り立たない。これは、右翼にも左翼にも見られる現象である。昔の共産主義者核マル三派赤軍派民青などといった組織に入っている人たちは、批判をすると、「日和った」などと弾劾されたものである。それが嵩じて、内部粛清などと言って人殺しまでしたのである。オーム真理教を例に出すまでもないが、宗教的ないわゆるカルトは世界中に枚挙に暇がないほどである。旧聞に属するが、ガイアナでのジム・ジョーンズの信者たちの死は強制 自殺及び殺人が多かったようである。死ねば天国に行けると信じて子供まで殺す親がいるというのは、鬼気迫るものがある常軌では考えられないことであるが、最近でも同じ理由でアメリカの母親が子供を殺した例が報道されている。妊娠中絶に関する「生命保護論者」と「選択保護論者」の確執は、最近ではあまり報道されなくなったが、前者の中から人工中絶を行う医者を射殺する者が出た事実は、自分が正しいと信じていれば殺人さえも辞さないという狂信主義としか呼びようのない精神状態」の悲しい結末物語っている。
生理学的に「信じている」と「信じていない脳」を比較すると、どんな違いがあるかというのは非常興味深い問いであるが、心理学的に見てみると、多くの人が、生きるよすがとして何かを信じていることはすぐ見て取れると思う。人間は何かを信じていなければ生きていかれないという説がある。昔ミシガン州立大学にいた、ヨルダンから来ているパレスチナ人の女性、教育博士号をやっていたと思うが、何かの話で、私が、神の存在を信じていないと言うと、「神を信じないでどうやって生きていけるのか」と、まさに驚愕の目で見られた経験がある。本人は真面目で、神を信じない人間に初めて会ったのだそうである。私は、冗談半分に、「だって今まで何とか生きてきたよ」と言ったように記憶しているが、この異文化間交流を彼女がどう受け取ったかは定かではない。
私は、信じることはみな悪いと言っているわけではない。自分で何かを信じても、それを人に強要・強制しない人も多くいる。ただ、現状を見てみると、信じている者と信じていない者との間よりも、信じている者同士の確執や衝突が社会や世界の平和を脅かしているように思える。信じていない者にとっては、それらは遠い存在のように感じられる。根幹にあるのはやはり、自分のみが正しいという排他的自己主張であり、変化取り入れていくことが不可能閉ざされた 価値体系 と言えるであろう。程度こそあれ、これは、信じるという行為必然的帰結である。と言うのは、何かを信じるということは、それが唯一至高のものだという 価値判断 であるので、当然排他的になり、独善的になる傾向先天的に存在するからである。  それではどうしたらよいか。人類愛とか世界平和というような普遍的と見える価値を信じて 行動 する人もいる。確かに、これであったら、「信じている」者も「信じていない」者も協同できる。戦争災害による難民救済事業などそのいい例である。このように、はっきりとした目標定めて、短期的な事業を遂行するというのは非常に実利的効果的戦略であると思う。私は、「信じている」者の心理構造「メンタル・レプリゼンテーション」はどうなっているのだろうかと常々疑問に思ってきた。大脳生理学専門家に聞いてみたいものであるが、「信じていない」者のそれとはだいぶ違っているだろうことは想像に難くない。信じている場合は、その信じている対象については、他者との議論の余地がまったくない。信じていない者から見るとコミュニケーションの断絶である。私は、信じている者の問題の核心はここにあると思っている。確かに、何か信じること、心のよすがとなるものがないというのは、常に価値判断とそれに基づく選択を迫られる現代生活においては、厳しいことである。もちろん、聖書コーランを信じていれば、問題ないなどと言う気はさらさらないが、判断の基準となるものがあるというのは、大分違うであろう。信じていない者は、大洋真中小船揺られているようなものである。判断・行動は、是々非々でこなしてゆかなければならない。私は自分でもこうしてきたと思う。何かを信じることで、自分に色眼鏡をかけることになるのを恐れ、特に大学の教員はこのような立場でいなくてはいけないのではないかと思ったからである。では、その判断の基準は何か。まず、自分の育った文化・教育・家庭環境から得た価値観が影響していることは想像に難くないであろう。その中に宗教的な要素が入っている場合もあろうしそうでない場合もあろう。ただ、大学とは、そのような既に与えられた知識偏見なしに洗い直す場所ではないか。そのためには、本からの知識だけではなく、実践による経験的知識も大切である。そしてこのプロセスは生きている限り続けていかなければならないと思う。社会・世界は常に変化している。昨日の常識が今日はそうでないということはままある。結局自分なりの価値体系を作り上げていくことが一番大切であると思う。特にこの国際化の時代には、一つの基準で物事を判断することは不可能になっている。私は、文化相対主義者でもない。それぞれの文化に良いところと悪いところがある。それが判断できるためにも、批判的精神養うことが現代焦眉の急の問題になっている。

2004年
トロントにて
太田徳夫
© Norio Ota 2005