AP/JP4000 .6.0 Advanced Readings in Modern Standard Japanese

Japanese Section, York University

Reading & Writing: diary, travel log

 

「キューバで考えたこと」一   Thoughts in Cuba part 1

太田徳夫

 

五月八日(木)

 

エアカナダ0970便は十二時時間通りにハバナ空港に着陸。通関でラップトップを二台持っていることが分かったが、一台は中古でヨーク大学からハバナ大学への寄贈だというと、向こうで通関の人にこの紙を見せなさいと言われただけで、問題なく通過、前回は一時間以上とめられたことを考えると、非常にほっとした。後はまったくチェックなしに空港待合所に出る。迎えがまだ来ていなかったので、しばらく待っていると、ヒラルドさんというFLEXで日本語を教えている若者がきて、「太田先生ですか」と聞かれ、大学の出してくれたミニバンで大学のゲストハウスに到着。ヒラルドさんは以前創価大学の招待で日本に留学していたそうで、なかなか真面目そうないい青年だと思った。大学の宿舎は、以前と同じ通りにある家だが、前より少し小さい感じである。近くの家にいた担当者が来てくれ、快適に過ごせるようなんでも言ってほしいとのこと、二人の女中さんにも紹介される。常駐が、カリダード、もう一人は、ルイザであった。英語がまったくなので、スペイン語を学ぶ必要を痛感。食事を頼む場合、朝食が2ペソ、夕食が4ペソということなので、五日分の30ペソを前払いした。部屋は通りに面していたが、エアコンと天井扇がついていて、浴室も割合きれいであった。荷物をほどくと、電気はブラシを入れ忘れたことに気が付き、その他シャンプーや石鹸をまったく持ってこなかったことを後悔した。夕方、ヒルベルトが娘のリシーとイレーネを連れて会いに来てくれた。大学から車が出るということだったので、空港は遠慮したとのこと。

晩御飯を食べて、同じ家に住んでいる中国語の教師、周ヤールー女史と会う。北京から来ていて、翻訳が本職とのこと、向こうの片言の英語とこちらの片言の普通話で二時間もしゃべった。あなたは典型的な日本人ではないねと何回も言っていたが、彼女も中国人にしては話好きで、割と馬が合いそうな感じがした。スサーナが電話で、明日迎えに来てくれるとのことで、初めての授業なので、割と早く就寝。

 

5月9日(金)

 

十時前にスサーナが古いタクシーで迎えに来てくれる。FLEXは三年前とほとんど変わっていない。ノエルさんやテレサさんやエルディスさんなど顔見知りが多いので、懐かしい。クラスは冷房が効いているラボで行うので助かる。出席者は七人である。ノエル、スサナ、テレサ、エルディス、ヒラルド、パトリシア、ミライ。みんな真面目で感じがよさそうである。初めにオリエンテーション。今回のコースの目的、どのように進めるか、どんなことをカバーするかなど、実例を挙げながら、話す。漢字の教え方なども、コミュニカティブにやることを指導。コミュニカティブ・パラダイムがこのコースの中心なので、一般論的な話をして、丁寧さや社会言語学手、また異文化間コミュニケーション的な話も入れる。

一時に授業を終了し、スサナが拾ってくれたタクシーで帰宅。10ペソもふんだくられた。それにしても暑い。五月は初めてなので、夏バテをしそうである。ヒルベルト氏が、石鹸・シャンプー・トイレット・ペーパーなどいろいろ都合してくれたので助かった。シャワーは前と違って何とかお湯が出る時もあるので、ありがたいが、途中で止まってしまうこともある。停電もすでにあって、ハバナに来た感じである。カリザードが四時半ごろ帰ってしまうので、夕食は四時に済ます。少々早いが、二食しか食べないので、ちょうどいいかもしれない。食事は今のところまあまあである。前の女中さんの方が料理が上手であったように思う。今日は、グロリアという手伝いの女性が来ていた。なかなか感じのよい人で、ドイツに五年いたとかで、ドイツ語が少し話せるので、分からない時はドイツ語になる。ヤールー女史はスペイン語の専門で翻訳をずっとやっていたので、非常に上手である。こちらも電子辞書で言葉を引きながら、試してみることにした。今回はスペイン語を学ぶ、いいきっかけになりそうである。アデラと連絡が取れなくて困る。彼女もどうしたのだろうと思っていることであろう。

 

部屋は朝昼交通騒音がひどく、ゆっくり休めない感じである。それに、エアコンが効き過ぎで、天井扇も回転速度が速く、調整が効かないので、ずっと付けていると冷え込んでしまう。

 

5月10日(土)

 

来週の月曜日まで授業がないので、少しのんびりできる。それにしても暑い。日中は暑いので、冷房をつけながら、月曜日からのコースの準備に取り掛かる。ラップトップをサーバーにしてすべて持って来たのは正解だった。スペイン語のCDプログラムも何とか役に立つ。かなり仕事が捗った。夕方六時にハバナ大学の前でヒルベルト氏と待ち合わせをしておいたので、五十分ぐらいの余裕を見て、歩くことにした。以前歩いた道がほとんどそのままで変わっていなかったので、方角の見当をつけて行くと、五分前に大学に着いた。少し待っていると程なくして、ヒルベルトと奥さんのラウラがやってきた。古いハバナに行くことになって、タクシーで出かける。見慣れているところなので、新しい教育省の建物などを見て、ビールで有名な店で乾杯。前に一度来たことがある店で、たけの高い容器に生ビールが入って出てくる。いろいろな話になり、彼らの将来の計画などについても聞いた。一度皆で、海に一泊旅行でもしようと提案した。キューバ人でもお金があれば観光地に行けるようになったためである。

 

そこを出て、ベダド地区に行きカフェテリアでまたビール。いろいろ話が弾んだ。帰宅したのは十二時近かった。タクシーの運転手が五ペソで言いかと聞くので、構わないと答える。

 

5月11日()

 

今日はキューバでも母の日である。女中さんたちも早めに食事を準備してくれ、半日で帰宅。ヤールー女史の知人の中国語の若い先生が訪ねてきていて、色々な話をした。英語・スペイン語・中国語のごっちゃ混ぜである。26歳ということで、自分がベトナムのサイゴン大学に派遣された当時のことを思い出す。明日は、大学から出してくれる同じ車で大学まで乗せて行ってくれるとのこと、大助かりである。ちょうどいい機会なので、前からやろうと思っていたウエッブの教材の改訂作業に取り掛かった。ここで使うのにも役立つので一挙両得である。暑さ負けか、食欲も落ち、調子が悪い。騒音にも悩ませられ、この調子で行くと体を壊す恐れがあると気になる。

 

5月12日()

 

午後一時半からの授業なので、午前中はのんびりできた。スサナが来てくれたが、一時前に中国勢が迎えに来てくれることになっていたので、別行動。一緒に誘ってあげればよかったかな。今日は本格的な授業に入る。コミュニカティヴ・パラダイムの要点をパワーポイントで復習、受講者に出してあった一番尊敬する先生という題での発表と討論。ウエッブを使って日本語の音韻の導入について説明して、終了。帰りも中国勢が待っていてくれて送ってくれた。ヤールー女史を通じて好感を持ってくれたらしい。帰宅後食事をして、仕事を続行。メールが使えないので、困る。ヤールー女史にアデラにメールを打たせてもらうよう依頼。何とか連絡が付かないと困る。ヒルベルトから連絡があり、週末の旅行について話したいから明日六時ごろ来るとのこと。

今日は考えると冷や汗が出るような経験をし、まったく後悔している。なぜあんなひどい冗談をテレサに言ってしまったか、自分でもあまりの無神経さにあきれるほどである。異文化間コミュニケーションを説教している人間がこれでは困るなあと深く反省した。水曜日には率直に謝ることにした。お詫びのしるしにメモリースティックを一つ進呈する予定である。暑さと騒音のせいにするつもりはないが、調子が悪いのは事実である。

 

5月13日()

 

部屋がうるさくて困るとカラダードにいうと、大きな家族用の部屋に移してくれた。屋敷の後ろ側の部屋なので、騒音はほとんどないし、広いテラスが付いていて、前はよその屋敷の庭で、蜂鳥を含め、色々な珍しい鳥が飛んでいるので、気分転換にもなり、急に調子がよくなった。食欲も出て、夕食も全部片付けたほどである。何とかやっと落ち着いた感じで、ほっとした。ヒルベルトが来たので一緒に大通りにあるガソリンスタンドまで行き、そこで、ブカネロ・ビールを一ダース買って、飲み始めた。一泊旅行はあまりお金がかかり過ぎるから、日帰りにしたらどうかというラウラとヒルベルトの意見であるが、それぐらいは何とかなるからと、一泊旅行の方向で、進めるよう説得。やっとアデラから電話が入る。こちらに来てくれるとのこと。三人で一緒になり、話に花が咲いたが、ヒルベルトは先に帰り、アデラとは十二時近くまで話をした。

 

5月14日()

 

今日は八時半からクラスがあるので、スサナが同じタクシーで迎えに来てくれる。授業の初めにテレサに謝る。今日は音韻の指導についてアクセントとイントネーションなどについて詳しく説明・練習もさせる。体調がよくなったせいか、授業も本調子になってきた。日本語の勉強で一番難しい点についての討論。

 

やっとメールを使うことができたが、ウエッブ・メールでは非常に時間がかかり、何とか重要なメッセージには返事を出す。その後、日本大使館の文化担当領事熊倉氏出席の日本語科の会議に出る。大使館側はテレビ利用の日本語コースの可能性はどうかという案を出したが、まったくのボランティアの仕事とのこと、そんなことでうまくいくはずはないと思う。日本語科からは日本語専用の部屋がほしいという強い要望が出ていた。熊倉領事とは明日午前11時に大使館で会うことになった。その後、日本語のスタッフに大使館に伝えてほしい要望があるかどうか尋ねたところ、環境整備というのが一番強い要望であった。プリンターなども大使館が捨てたものを自費で修理させ使っているが、トーナーなどが手に入らないので、非常に困っているとのこと。次回、家にある中古のプリンターとトーナーを持ってくることを約す。

 

帰りはまた中国勢の車でスサナも一緒に送ってもらう。夕方食事後、ヤールーが海岸に散歩に行かないかと誘ってくれたので、一時間ほど散歩。五番街が散歩やジョッギングで有名とのこと、かなり多くの人が出ていた。

 

ヒルベルトからの電話でシエンフエゴスに行く旅行の話がまとまってきているが、クレジットカードが使えないとのこと、何とか銀行にキャッシュカードがあれば、いいのだが。明日調べてくれるとのことであった。

 

5月15日()

 

地図を見ると日本大使館はミラマーでもかなり離れていることが分かったが、散歩がてら、写真をとりながら、歩いてみることにした。三番街を大分歩いたが、十一時に近くなったので、ちょうど近くにいたタクシーに乗る。3ペソと言われたが、降りる時に細かいのがないと言われ、結局2ペソぼられてしまった。十一時丁度に大使館に到着。熊倉氏に面会を申し込む。一時間ぐらいこちらの計画などを話し、これからの協力と支援をお願いする。大使は残念ながら、病気とのことであった。熊倉氏を29日のパーティーに招待。その後下の銀行に行ってクレジット・カードかキャッシュ・カードで現金が引き出せるか聞いたところ、向こうにあるコモドア・ホテルに行かないとだめとのこと、早速行ってみることにした。大きなショッピングセンターの隣にあるホテルで、ここなら大丈夫そうと思われたが、受付の女性たちは銀行に行かなければだめということで、結局無駄足であった。帰路は、五番通りに出て途中写真をとりながら、歩いて帰ることにした。初めに目に付いたのは、ミラマル・ヘースス・カトリック教会堂。外観は修復が必要な感じであったが、非常に大きい。お掃除をしているおじさんが立ち入り禁止の綱をどけてくれて中に入ることができた。なかなか立派な大教会堂であった。パイプ・オルガンなども大きなものが入っているし、壁画なども大したものである。おじさんにありがとうと言って一ペソの心づけを渡して外にでると、僧院の庭に火焔樹が満開であった。ローマ法王の写真のついている垂れ幕がかかっていたので、多分、彼が来たときに少しきれいにしたのかなと思った。また大通りを写真を撮りながら、歩く。色々な大使館がひしめいている通りで、結構面白い。また、色々な南国の木も花が咲いていて珍しいものが多い。ブーゲンビリアも至る所に咲いている。教会ももう二つあったが、時間がないので外から見るだけにした。かなり汗をかきながら、家に戻り、軽装に着替え、今度はFLEXへ。ヒルベルトと三時に会う約束になっている。だいたいの予想をつけて、歩いて行くと、何とか、見慣れた国立墓地に出たので、革命広場の方角に向かい、写真を撮りながら、少々遅れてFLEXに到着。彼もすぐ来て、近くの電気の修理屋に向かう。古い時代物の扇風機の修理である。しばらく待って直ったので、彼の家まで歩くことにする。のどが渇いたので、ブカネロを一缶ずつ飲みながら歩いた。野球場のそばを歩いて彼の家に辿り着く。今日はよく歩いた。奥さんのラウラとは三年ぶりである。娘のリーシーとイレーネも大分大きくなっている。ヒルベルトにはすでにお土産を渡してあったが、ラウラにメモリー・スティックをあげた。また、ビールを飲みながら、リーシーのコンピューターに新しいDVDROMを取り付け、そのCDROMをヒルベルトのコンピューターに載せ換え、カナダから持って来たDVDRWを新たに付け加える仕事を完了。ヒルベルトのコンピューターは、新しいにもかかわらず、まったく遅くて話にならない。多分、レジストリーのエラーが何万とあるのではないかと思い、レジストリー・クリーナーをかけてみたが、ぜんぜん終わらない。

食事をしながら、明日からの旅行の話をする。ラウラは大変なお金がかかるので、心苦しいと辞退したが、説得すると、それではということになった。シエンフエゴスは今回はあきらめ、ビニヤレスとバラデロに一日ずつ行くと言う案が出た。彼女の知り合いのレンタカー屋と旅行社に連絡してあって、すべてクレジット・カード払いとのこと、それで話が決まった。明日ヒルベルトと車を取りに行き、旅行社の支払いを済ませ、彼の家に戻ってみんなで出発と言う手順になった。タクシーを呼んでもらって帰宅。小さいスーツケースに必要なものを詰めて寝た。

 

5月16日()

 

ハバナに来て一週間が経った。早いものである。受講生たちも少しずつ慣れて、何とか軌道に乗ったように思われる。授業が終わってすぐ、ヒルベルトとハバナ旧市内まで、乗り合いバスに乗って行く。同乗者たちが結構面白い。キューバ人は、なかなか朗らかである。レンタカー屋に着くとすでに話が通じてあって、戻ってくる二百ペソを現金で払って、キアの小型車を借りる。ヒルベルトは免許を取ってから、あまり練習していないので、大分危なっかしいが、道路を知っているので、彼に運転させる。マラコンに沿って大通りをミラマルに向かう。旅行社はホテルの一階にあった。ビニヤレスは取りやめて、バラデロに二日いることにしたが、ここでも、ラウラの知り合いが全部面倒を見てくれ、ホテルも無事取れ、初めに、我が家に戻り、スーツケースを拾い、次にラウラの働いている英国領事館に向かい、彼女を拾って帰宅。午後四時ごろ、出発、バラデロに向かう。ヒルベルトの危なっかしい運転には、少々閉口したが、運転が大好きなことともっと練習が必要なので、あえて、こちらが運転するとは言わなかった。丁度二時間でバラデロに到着。かなり大きなホテルで、カナダ人も多く見かけられた。カウンターの所で、ヒルベルトの昔の学生で今はホテルで働いている人に会う。受付に名前とバウチャーを渡すと、あなたの部屋はシングルでこの本館で、家族の方はジュニア・スイートで別棟になると言う。友だちだから、何とか一緒にならないか聞くと、多分ヒルベルトの学生が口添えしてくれたのだと思うが、こちらもジュニア・スイートをもらうことになった。ところが、別棟に行くと、エレベーターもなく、古そうな建物だったので、マウイのことを思い出して、ひどい所なのではないかという不安が頭をよぎる。ところが、部屋に入ってみると、すばらしい設備で、大感激。六人は楽に寝られるベッド、控えの間とベランダ、大きな浴室、などすべて近代的である。蚊がかなりいるのが気になるが、なかなか立派なものである。階段の所でカナダ人らしい夫婦と立ち話。モントリオールから来ているフレッドとメアリーさん。なかなか感じのよい夫婦で、再会を約す。ヒルベルトもラウラも娘二人も大喜びで、はしゃいでいる。しばらくして海に出かけたが、水も非常に透明で、白砂、ハワイよりいいような感じがした。椰子の葉か何かで編んで屋根を作った日差し除けは最高である。ホテル内でもビーチでも飲み物からすべてサービス込みなのはありがたい。バーも一つは二十四時間開いているので、アルコールも飲み放題である。ヒルベルトの家族を待っている間、バーでビールを飲んでいたが、隣にカナダ人らしい中年男性がいたので、声をかけると、モントリオールから来ているバーナードと言う人だった。医療関係の仕事をしていて、奥さんを置いて一人で来ているとのこと。意気投合してしばらく話していた。帰りがけに、彼は、若者たちばっかりなので、話し相手が見つからないと思っていたが、声をかけてくれてありがとうと言った。ヒルベルトの家族が来たので、バフェーの夕食に出かけると、またびっくり。外の国のバフェーと比べてまったく遜色のない品揃いである。まったく別天地のようである。食べ放題飲み放題と言うのはありがたい。夕食にはワイン、キューバの製品だが、悪くない。グラスを飲み終わるとすぐ注いでくれる。食事の選択は、イタリア系パスタ、魚や肉の鉄板焼き、その他、ハバナではお目にかかれないものばかり。デザートも結構盛りだくさんで、果物類や甘いものがたくさん並んでいる。少々びっくりしたのは、ヒルベルトが色々なものを楽しんで食べているのに比べて、ラウラと娘たちは、普段食べなれているポテトチップスやソーセージやパンなどしか食べないことである。リーシーに糖尿病の疑いがあると心配している割に、彼女に好きなだけ甘いものを食べさせ、ソフトドリンクを飲ませているのは、問題だと思った。食後、ラウンジでしばらく飲んでいたが、娘たちはラウラと部屋に戻り、ヒルベルトと二人でまた飲んでいたが、彼も部屋に引き揚げたので、こちらは残って、モヒートを飲んでいた。カウンターでロシア人の若い女性二人と知り合いになって、色々な話しをする。英語が出来る女性は、大学で英語を専攻しているとのことで、ブレイズをしていて、昔の映画の「テン」に出てくる女優にそっくりな感じがした。もう一人の女性は明日発つとのことで、あまり話しをしなかったが、たしかカーチャと言う名前であった。その後、二十四時間開いているバーに移動。違うロシア人のグループと合流。その中の一人の女性が通訳代わりを務めてくれて、政治談議に花が咲いた。プーティンを支持する男性がいたので、ゴーバチェフはどうかとか、ロシアの現在の状態など、なかなか面白かった。ロシアは資本主義を取り入れて、いいかもしれないが、ソ連の世界的プロパガンダを真に受けて、共産主義を信奉してきた国家はどうなるのかと言う問いと、ロシアがもっとそれらの国々を助ける義務があるのではないかと言う問いに、かなり自己弁護的になっていた。こんなに大勢のロシア人が、バラデロに来て、バカンスを楽しんでいるのを見て、このような疑問を提起するのは当然だと思われる。現在のロシア人にあまりそのような認識がないと思われる。そのあと少しお腹がすいたので、ハンバーガーを頼んで一人で食べていると、アジア系の素敵な若い女性が、あなたは中国人かと聞くので、トロントに住んでいる日本人だと答えると、同じテーブルに座って、彼女の女友達、彼女はもうかなり出来上がっていた、とエドモントンから来ている白人のボーイフレンドと一緒に続けて飲むことになった。彼女は、父親が白人、母親が中国人で、両親は彼女が子供の時に離婚したとのこと。トロントに住んでいるので、お互いに親近感が沸いて、色々な話になった。彼女は、子供の時は、太っていて、醜かったので、誰も話し相手になってくれなかったが、成長してから急に皆が話しをするようなったことに憤慨していたが、なかなか魅力のある女性になったのだから、当たり前だよと答えた。本当に魅力的な女性であるのに、自分にまったく自信がないこと、白人のボーイフレンドを選んだことなど、母親とそっくりなことをしているのではないかと想像された。彼女の女友達がつぶれたので、彼女が部屋に連れて行っている間、彼女のボーイフレンドと話したが、見掛けによらずなかなか気持ちのよい若者であった。彼女が戻ってきて、三時過ぎまで話をして、やっとお開きになった。こちらも少々飲み過ぎであった。

 

5月17日()

 

二日目。昨晩と言うより早朝飲んだので、少しのんびりして、ヒルベルトの家族と朝食に出かける。食堂で、トロントのティ−シャツを着ている男が一人で食べていたので、カナダ人かと聞くとドイツ人とのこと。我々の食卓に招くと、いいかと聞いて喜んで一緒に食事をすることになった。ミュニックから休暇で来ていて、技術者とのこと。非常にいい人間であることがすぐ分かった。子連れのガールフレンドがいるが、彼女がキューバに来たくないので、一人で来たと言う。昨日のバーナードに続いて二人目である。朝食も非常に良かった。オムレツを焼いてもらったり、パンケーキにシロップ、ふんだんなサラダと果物類、まったく文句なしである。終わってから、海に行く。丁度、フレッドとメアリーがすでに日陰に陣取っていたので、その隣に席を決めてしばらく話していた。海の水は予想以上に澄んでいて、遠浅で波も静かなので、子供には絶好の浜辺である。水もあまり冷たくない。大分長い間浜辺にいて、昼は、すぐそばにあるレストランで、済ますことにした。カラマリがあるとのことだったので、それを注文する。残念ながら、フライのいかだったが、おいしかった。午後は、皆でカタマランに乗って楽しく過ごした。

 

 

5月27()

 

今日は、なんとなく風邪っぽい。今夏風邪をひきたくない。冷房を止めて寝る必要がありそうである。宇佐美女史はビニヤレスに観光旅行。朝早く出立。こちらは、運転手のルイさんとスサナさんが迎えに来てくれて、FLEXへ。今日は、いつも使う冷房の入っているラボが使えないと言うことだったが、結局、同じ部屋が使えるようになった。初めに、宇佐美女子に指摘された問題点いついて、説明。昨日の宿題−日本語、日本人、日本文化、日本社会に関する印象−について継続討議。なかなかおもしろい指摘があった。日本人は規則を作りすぎる、客を受け入れることが上手、なかなか友達になれない、時間を守ることはいい、食べ物がおいしい、物が豊富すぎて無駄が多い、テレビのニュースなどひじょうに細かい報道を長く時間をかけてやっているのはおかしい、若者たちの意識が低い、などなど、鋭い意見もあった。次に、パワーポイントを使って、自分の日本語歴を通じて、これまでどのような過程で、どんなことをして、日本の教育を発展させてきたかについて話す。キューバで日本語学習者を増やすための参考になってくれれば、と思っての説明である。休憩を入れて、ウエッブを利用して、文法指導。

授業が終わって、十一時半からのスサナさんのクラスで学生に質問するように頼んであったので、その前に、メールをやらせてもらった。スサナさんのクラスは、成人クラスで、遅れてきた人を含めて、学生は四人。黒人系のオスメルさんは映画の専門で日本の映画に興味を持っているために日本語を勉強している。なかなかコミュニカティブで、話そうとしてくれる。非常に感じもよく、発音もいい。ジョエルさんは建築の勉強をしている。恥ずかしがり屋であまり意見を述べないが、まったく自分の興味で日本語を勉強しているとのこと。ダイミラさんは、しばらくクラスに来ていなかったので、ほとんど話せなかったが、自分は語学の勉強が好きだから、やっているとのこと。遅れてきたエイリーンさんは、以前、私の  TELのコースを取った人だった。一週間六時間のコースで、三年目の成人教育のクラスであったが、初めの学生数と比べると、学生は激減しているとのこと。この理由はやはり、日本語を勉強しても、将来あまり役に立たないと言う点が大きな問題であろう。

 

五月二十八日 ()

 

宇佐美女史に「自然会話で学ぶ日本語」に関する発表をしてもらった。終わりに近づいて停電になって中断。FLEXでは初めての経験。ハバナ大学の英語科のアデラ女史に彼女がこれまでやってきた英語のオンライン自習読解教材について発表してもらうことになっていたので、どうなるかと思ったが、電気が回復して、事なきを得た。彼女の発表は、スペイン語であったが、非常に上手にやってくれたので、反響もよかったようである。授業が終わってから、ヒラルドさんの漢字の授業で学生たちと話す機会を持った。みんななかなか元気でコミュニカティブな学生たちで、キューバの日本事情に関して色々意見が聞けた。中でもリリーさんが非常に積極的に話しをしようとするし、一年生であるのに、かなり話せるので非常に感心した。辞書がないこと、インターネット用の教材があるのに、インターネット接続が不可能で使えない、日本語に興味がある人は非常に多いが、授業時間に来られない、だから、もっと教員を増やして、日本語のコースを夜にもやってほしい、結局、日本語を第二言語の資格にするアイデアには全員大賛成。自習用教材をイントラネットに載せるという案にはみんなが喜んでくれた。エンリケが今日ヨークのウエッブ教材をイントラネットに載せてくれたので、みんなで見られるようになった。その後三時まで、インターネットを使わせてもらって、宇佐美女史とメールを調べる。

 午前中にフランから電話があって、金曜日にはトロントに帰るとのこと。安心した。

 三時までヒルベルトを待っていたが、来なかったので宇佐美女史とルイさんの車で帰宅。午後初めて雨季的な雨がかなり降り、ベトナム的な気候になった。夕食前に宇佐美女史とビールを飲みながら、色々な話をする。

夕食後は、JSACの梗概を書く。今回はキューバの日本語状況の発表にすることにした。

 

 

五月二十九日 () 

 

中国語の趙先生が昔のカードをくれた。メールで連絡することができる。

 

五月三十日()

 

昨晩飲み過ぎて、少々きつい。朝早く起きて、修了証書に署名し、受講者の名前を間違えないように書き込む。スサナが運転手のルイさんと迎えに来てくれる。スサナからお土産にキューバの音楽のCDをもらう。ルイさんに一時に迎えに来てもらうよう依頼。セミナーでは、文法関係の説明、忠臣蔵の現代的意義、最後にみんなの話をビデオ取りした。全員非常に勉強になったと言ってくれただけでなく、外の言語を教える時にも役立つ、自分の勉強法がよくなかったことに気が付いた、などなど、来た甲斐があったと思う。

スサナと銀行に行って五十ペソ札を五ペソ札に細かくしてもらう。家のおばさんたちへのお礼である。ヒルベルトも家に寄るので一緒に来て、借りたものを返したり、開けなかったラム酒をあげたりしてから、近くの飲み屋に生ビールを飲みに行く。ピッチャー一つの値段が、一ペソ二十セントなので、ヒルベルトはあまりの安さにびっくりしていた。この辺は労働者地域の端のほうなので安いのであろう。三杯ずつ飲んで、ヒルベルトはラウラに途中で拾ってもらうべく、戻るので、一緒に行って、ラウラに最後のお別れを言った。その後眠気が出て、しばらく仮眠。目が覚めると、すでに六時過ぎで、アゼラに電話すると今帰ったばかりとのこと。結局会わず仕舞いであったが、今日は疲れていたので、丁度よかった。

 

 

© Norio Ota  2009