Japanese Section, DLLL, York University
ヨーク大学日本語科四学年読解教材
異文化間コミュニケーション 武者修行の旅 (入門編)」
‘Samurai-errantry trip for cross-cultural communication: Introductory chapter’
@Dokkyo University, Saitama, Japan 2009
ヨーク大学日本 研究科 太田徳夫
前置き
ただ今御紹介いただきましたヨーク大学の太田徳夫です。昨年獨協大学で「異文化間コミュニケーションを超えた人間関係」という題でお話をして、異文化間コミュニケーションは目的ではなくの人間関係を 築くための学際的方法論であり、それと同時に「「全力投球」すなわちコミットメントが大切であると説きました。私は、獨協大学で、これまで十五年ほどほぼ毎年違うテーマで異文化間コミュニケーションに関するお話をして参りました。昨年のお話は、そのシリーズのまとめと言ってもよいと思われます。その間、世界・社会状況も大きく変わり、私自身もその変化対応して来ました。異文化間コミュニケーションに関する基本的な考え方は変わっていませんが、そろそろバージョン・アップが必要だなと感じていました。そこで今日は、初めに遡って、自分が、異文化間コミュニケーションと言うような立派名称がない時代に、うすうす何が大事かに気が付いて、また 先人達の書いたものを読んで、今の流行表現を使えば「異文化間コミュニケーション武者修行の旅」に出ることになった経緯からお話したいと思います。最近大学生と話した印象で、例えば、自分たちは、六十年代の学生運動について聞いたことがあるが、学生運動が何なのか分らないということを聞いて、ここ二、三年前から、抽象的な話だけでなく、具体例について話すとよく 理解してもらえると感じました。それで、今日は、自分の体験をかなり詳しくお話したいと思います。勿論、時代も異なり環境も大きく変化していることは、重々承知していますが、私の経験の中から、何かヒントを得て皆さんの役に立つことがあれば、幸いと思います。ただ、四十年近くになる異文化体験を一時間に集約して話すのは不可能なので、今日は入門編ということで、準備段階の話に絞らせていただきます。
コミュニケーションは異文化間コミュニケーションである
私の意見では、コミュニケーションと言うのは基本的には異文化間コミュニケーションであり、一文化の中でのそれは下位文化間のコミュニケーションと考えているわけで、自分が生まれ育った家庭も下位文化の一つの単位であり、学校に上がれば、その学校も、また、クラブのチームも、友人のグループも、会社もみなそれぞれ違った単位であります。皆さん自身のこれまでの経験を振り返って見られるとよく分ると思いますが、家庭から小学校に上がり、中学・高校・大学と新しい環境に適応するのに大分時間がかかった人も多いのではないでしょうか。 登校拒否現象などは、異文化間対応がうまくいかなかったことにも大きな原因があると考えられます。人間は、このような様々な下位文化を経て成長するわけですが、日本のようにかなり同質的な環境で育った場合とカナダのトロントのように多文化が混在している環境で育った場合、ずいぶん異なった人間形成予想されます。カナダの場合、御存知のように多文化主義政策により、それぞれの文化が融合してカナダ文化を形成しているという段階に達していないので、初めから異文化の環境で育つわけです。世界の国々を見ると、日本のような同質的な環境のところは少なく、異人種間・異文化間の軋轢至る所噴出しているのが現状です。もちろんこれには政治的・経済的・社会的な要素複雑絡んでいますし、宗教が大きな要素になっていることも否めません。すべてを異文化コミュニケーションで切るつもりは毛頭ありませんが、この枠組みで色々な問題を見てみると、問題の所在がかなり明白になってくると思います。一つ例を挙げると、親子の関係です。よく世代の断絶と言われますが、これを異文化間の抵触置き換えてみたらどうでしょう。カナダにいて、考えさせられたことは、子供たちは異文化なのだと言うことで、最終的にあまり感情的にならずに対応することを学びました。親は自分の子供だからと、子供の異文化・下位文化を無視しようとします。子供の方も、親は自分たちのことを分ってくれないと反抗し、非行に走ったりします。異文化間コミュニケーションの理解と教育を適用できれば、親子関係の摩擦もかなり軽減できるのではないかと思います。
日本のような下位文化の境界とその意識希薄な環境では、真っ向から衝突したり、けんかをしたり、批判したり、することが少なく、よく言えば、協調的で、を大切にし、丁寧さが大切で、集団意識強調されることになります。これが嵩じると「ぬるま湯社会」にどっぷりつかり個の意識が育っていない、「未成長」の大人が多い社会になってしまいます。戦後の日本は、アメリカ型の民主主義導入されたにもかかわらず、この傾向が強く、見かけだけの大人がうようよいる国になってしまったように見えます。カナダの場合は、逆に、みんなが共有する基盤が希薄で、自然に協調するよりも、自己権利取り分を主張する利己的な傾向が強くなっています。私はカナダの学生には。日本語・文化を学ぶことによって、そのよいところを吸収し、個と集団の調和の取れたアイデンティティーを構築するように指導しています。今日は皆さんのためのお話なので、ぬるま湯社会でぬくぬくと生活して行くのではなく、現代版武者修行の旅に出ることをお勧めしたいと思っています。結局個人の胆力鍛えることが、焦眉の急であると思います。
現代版武者修行の旅
皆さんは昔のが武者修行の旅に出たり、修行僧雲水になって修行の旅に出たことを聞いていると思います。戦国の世太平の世になって、侍の場合町道場剣術修行をするようになり、自分を試す実践の経験を得る機会がなくなり、自分の技を磨くためには、各地にいる剣豪との練習試合果し合いをするしかなくなりました。宮本武蔵の「五輪の書」を読んでみると、その過渡期様子がよく分ります。僧侶の場合も同じで、自分の慣れ育った環境にいては、解脱悟道はあり得ないことに気が付いた僧侶たちが、他のお寺に行って修行をしたり、荒行励んだり、諸国行脚の旅に出たわけです。この考えは現代にもよく当てはまると思います。皆さんの中に、日本の社会は、自由がなく、息苦しく窒息しそうだと感じている人がいるのではないでしょうか。時代閉塞の現状と言ってよいかもしれません。また、なぜ自分は親や先生を含めた他の人が期待するような「いい子」でいなければならないのか疑問に思っている人もいるのではないでしょうか。これは自我の目覚めとして当然なことなのですが、どうも現代の若者は、心地のよいぬるま湯社会にどっぷりつかっていて、こういう意識さえ生まれてこないようです。でもみんな何かがおかしいと感じているのではないでしょうか。
先日、昨年の自殺者数についての報道があり、日本では十一年連続で毎年三万人以上の人が自殺しているとのことでした。過去十一年間に三十三万人以上の人が死んでいることになります。日本はいまだに「ひ弱な花」日本なのでしょうか。中央大学でゼミの先生を殺した学生のことを考えても、自分の問題を転嫁して全て担当教授の責任にしているように思われます。「草食系男子」というような言葉が代表するような、女性を誘うことも出来ず、70パーセントの若者が付き合っている異性がない、男性が増えているとのこと。30歳から34歳の間の人の半数近くが結婚していない事実。少子化もますます進んでいることが分かります。私見では、ほぼ全ての問題は、個の欠如にあると思います。今日のお話のキーワードは、子育て=個育てです。自分で考え、自分の言動に責任を持ち、市民社会で行動できる人間の養成です。このために異文化間コミュニケーションの教育が非常に役に立つと思います。 故丸山眞男氏が「個人の成長には『異質なものとの接触』が大事だ」と語っていますが、この異質なものを下位文化を含めた異文化と考えていいかと思います。歴史的に見ても現在を見ても日本人一人一人に個が確立していないことが、様々な問題の元凶になっていることは疑う余地がありません。個を確立した人は、 世界的な価値観と考えられる自由・平等独立・権利などを内在化内面化し、進取の気性を持ち、相手の立場に立って物が考えられ、危機管理などを含め、国内外で活躍できる人です。勿論日本にも個を確立した人は数多くいた・いるでしょう。また、福澤諭吉新渡戸稲造を含め、世界に通用する優秀な日本人が、個の確立を説きましたが、結果第二次大戦終結までの惨憺たる日本文化の敗北に終わっています。現代は、単に個の確立だけでは強大なマスコミや政府などによる情報統制の中で個人が急激に変化する世界・社会の中で、理想主義掲げ機能することが困難な時代だと言われています。世界情勢を見ると、例えば、中国とインドが軍事・経済大国化を推進し、ラテンアメリカ・アフリカ・南太平洋など経済・軍事援助を通じて、鉱山長期採掘権独占するなど、この二国の国際戦略には世界を大きく変えるものがあります。二月から三月にかけて、キューバのハバナ大学に教員研修で行って来ましたが、中国の梃入れ影響拡大には眼を見張るものがあります。中国政府は、四千人の若者をスペイン語習得のためにキューバに送っています。勿論、将来スペイン語圏で仕事が出来る人材養成が目的であることは間違いありません。日本政府も企業もアメリカの顔色を伺って、積極的に動こうとしません。私のこれまでの異文化経験でも、中国人やインド人と対で仕事をしたり、交渉できる日本人がどのくらいいるでしょうか。外交を見ても、世界で日本は相手にされていないように感じることが多くあります。間違いは誰にもありますが、首相が、チェコ・スロバキアなどという初歩的な間違いをする国と真面目に交渉する国があるでしょうか。アメリカは、オバマを大統領にする国です。政治家小物化叫ばれて久しくなりますが、日本には自己の信念貫き通し指導力発揮できる政治家は見当たりません。ただ、それも、結局、彼らを代表に出している国民一人一人の問題でもあります。北朝鮮地下核実験をし、ミサイルを発射すると、直ぐ、日本も核武装すべきだという意見が出てくるような、状況が変われば、これまでの価値観を放り出す国民は、やはり戦前からあまり進化していないと言えると思います。故小田実氏の「現代の鎖国」という表現が当たっているように、世界の変化に対する日本の鈍感さはますますひどくなっているように思います。国内では、ぬるま湯社会にどっぷり浸かり、安定・安心ばかり求める人たちが増加しています。「厳しい状況を生き抜くのはそれほど難しくないが、富裕な状況で厳しく生きるのは難しい」というようなことを言った人がありますが、まったくその通りだと思います。自分の置かれている環境が、飽衣飽食の楽な環境であれば、自分に厳しい環境を課することが必要です。新渡戸稲造が同じことを言っています。

「デ一言で私の言うことを約めれば、品性を養うことは、今日日本の教育制度に於ては更にない。
ないからというてだだに教育者を詰るのではない、責むるのではない。寧ろ青年諸君に直接に訴えて、
今日はその設備がない、ないからして自分でやれということである。かくの如きは教師のあるに如くはない
けれども心掛け依って自分で出来るものである。徳性を養うには自力で、ある程度まで進むことが出来るものである。
他力のない以上は自分でやるに如かぬのであるから、その心せんことを切に望むのである。」
「1903年8月1日『青年界』2巻10号」

ここで品性と呼ばれているものを個と置き換えてみると、他の人に頼れなければ自分でするしかないということが分ります。
人は見かけによらない
ところで、皆さんはイギリスの全国のど自慢に出たスーザン・ボイルさんについて知っているでしょうか。残念ながら決勝戦では二位になってしまったそうですが、普通の魅力のない、どちらかというと滑稽に見える冴えない中年のおばさんが舞台に上がると、審査員聴衆も「ああ、これはだめだ」という態度接したのですが、彼女がい出した途端、その素晴らしい声と歌で、「ええっ」という感じで、審査員と聴衆のあっけにとられた姿は、まったく見ものでした。既成・固定観念で人・物を見てはいけないといういい例ですが、本当に人は見かけによりません。昨年アトランタに行った時、友人たちが朝食に連れて行ってくれたレストランに入り、席に着いたところ、反対側にいる刺青をした屈強な中年男性がこちらをじろじろ見ているので、何か因縁でもつけられるのではないかと嫌な気がしたのですが、「失礼だが、日本人か」と聞かれ、そうだと答えると、ニコニコして、自分は海軍で横須賀に五年いた、これは家内のスズだと言うのです。奥さんの名前はスージーなのですが、日本名で紹介し、彼女も私の家内と同じ牧師だということで話が弾みました。私が昔トラックの運転手をしていたと言ったら、皆さんも驚くかもしれません。友人には柄にないことをしたと言われましたが、自分の枠からはみ出すことが大事だと思います。先のスーザン・ボイルさんも一生懸命練習して、世の人を見返したいと思ったのかもしれません。異文化間コミュニケーションの教育・訓練は自己を既成の枠組みから抜け出すだけでなく、より幅の広いまた深みのある人間になるために役に立つと思います。
読書の効用
最近の若者は本を読まないと言われます。これは世界的な現象のようです。日本の大学生の中にも教科書以外は漫画しか読んだことがないと言う学生がいました。読書はまず異文化理解の入り口です。日本の小説からも人生の色々な経験を学ぶことが出来ますし、外国文学に接すれば、さらに「異質なもの」に触れることになります。例えば、私の場合は、小学生のころから、中国の古典興味を持ち、非常に大きな影響を受けました。中学生のころ、禅宗の僧侶になることを思い立ったのも、「紅楼夢」と言う中国の大河小説夏目漱石の「門」などの影響です。高校に入学した夏、鶴見にある総持寺という曹洞宗の本山で短期間僧侶と同じ生活をさせてもらいました。その経験は、今でもよく覚えているほど、爽快で、魅力的なものでありました。面白いのが来たということだったのでしょうか、毎晩、代わる代わる廊下の前に住んでいられた高僧が、部屋に呼んでくれ、色々な話をしてくれました。悟道老子と単頭老子という名前でしたが、素晴らしい人物でありました。それなのに、なぜ仏門に入らなかったかと言うと、故下村湖人氏の「青年の思索のために」と言う本に、「厭世観は甘い」というを見付けたからだと思います。先日、家で何十年も埃を被っていた本を開いてみると、その箇所にちゃんと赤線が引いてありました。この本にも人間は苦労をしなければならないと書いてありますし、多くの先人たちが色々と後世の人が学べることを言っています。本を読まないと言うのは、その知識・経験・英知宝庫に接しないということで、いかに自分が損をしているかに気が付いていないと言えましょう。本は、異質なものに触れるための宝庫であります。私の場合は中国に傾倒しましたが、座右の銘として、「人生至る所に青山あり」とか「一炊の夢」とか杜甫春望という詩の「国破れて山河あり 城春にして草木深し」などよく覚えています。異郷に旅して、王維の「獨在異郷為異客」(獨(ひと)り異郷(いきょう)に在(あ)りて異客(いかく)と為(な)る)はやはりジーンと来ました。今でもよく覚えている詩は、 王維の「元二の安西に使するを送る」 渭城朝雨軽塵浥す 客舎青青柳色新たなり 君に勧む更に尽くせ一杯の酒 西の方陽関出ずれば故人無からん という友情をうたったものです。この詩は、日本人の情緒に合うようで、非常に好かれているものの一つですが、異文化的に見て、日本人のセンチメンタルな解釈がもともとの詩のニュアンスと同じかどうかには疑問の残るところです。こんなわけで一時大学で中国文学を専攻し ようと考えていた時期もありました。昔から若い時に出来るだけ沢山本を読めと言われていますが、読書が個々人の人生にいかに大きな影響を与え得るかがお分かりいただけたと思います。いくら読んでも足りないのですが、武者修行の旅に出る前に本を読んで準備してほしいと思います。勿論、机上の空論ということもあって、本からの知識だけでは生活していくことが出来ませんし、読んで記憶しているだけでは、読書の価値はありません。新渡戸稲造が次のように書いています。 「私が始終青年のために憂えていることの一つは、概して日本の青年は薄ッぺらであるということ。書物を読むにいささかも字を頭に入れるというだけに止まって、その文の精神を解することを力めないし、甚だしきはその意味さえも理解しないでいる者が多い。その癖に大きな書物を読みたがる。難しい書物を手にしている。この点に於ては、外国殊に亜米利加だの欧羅巴の書生に較べて、日本書生の極く悪い癖であって、ちょっと話振を聞くと、 高尚なような、また深いように聞こえるけれども、モウ三分か五分話していると、己れ自からが意味を解さないで話しているものだから、直ぐに襤褸が出て、薄っぺらな所が顕われる。これは青年のみならず教師が悪いのであって、教師がややもすれば半解であって、教えることを自ら消化していない。その癖大きな問題を担ぎ出す、あるいは大きな書物を引照している。」[1903年8月1日『青年界』2巻10号] 本には色々な読み方がありますが、本当に理解するまで時間をかけて批判的に読み、自分の意見を纏めておくことが大切です。本は読めば読むほど言葉の勉強にもなり、これまでの価値観を考え直す機会を与えてくれるという意味でも、異文化理解には必要不可欠です。読書の習慣がついていない人は、ぜひ今から始めることをお勧めします。先人たちがすでにやっていて、それなりの蓄積があることを知らずに一から始めるとしたら、何のために教育を受けているのでしょうか。
課外活動とアルバイト
さて、受験勉強や授業で習ったこと、読書から学んだこと、自分の経験から習得したことなど、大学生の時は、非常に頭でっかちになっていて、自分でも、知識だけ溜まって、ちっとも活用していないことにすごいフラストを感じた経験があります。大学はこれらを再点検し、実験する所だと思います。ありがたいことに、大学は社会に出る前のシミュレーションなので、失敗しても許される、またそこから学ぶことが出来るわけです。それには課外活動やアルバイトが非常に役に立ちます。最近の学生と話すと、部活をやっている人が非常に少ないという印象を受けます。皆さんの中に部活をやっている人がどのぐらいいるでしょうか。大学で異質なものに触れる機会を与えてくれるのはクラブ活動を含めた課外活動とアルバイトだと思います。自分の場合、受験地獄と言われた時代に浪人して希望の大学に入ったものの、大学の授業に失望し、つまらない授業をサボって、専ら、学生運動も含めた課外活動に一生懸命になっていました。1960年代後半はベトナム戦争を含め、政治的に多くの問題が先鋭化し、私も自分なりの学生運動に急激に傾斜して行きました。元教育大学の故家長三郎教授が政府を訴えた、教科書検定訴訟学生支援委員会の大学代表を務めたり、「ICU平和を守る会」を創って、私は、在日韓国・朝鮮人に対する差別問題を担当しました。朝鮮問題研究会というのを友人と創って副会長を務め学園祭では、「韓国の現状」というテーマで、展示会及び講演企画しました。その折、朝鮮戦争はどちらが始めたかについて論文を書きました。その他、歴史研究部、卓球部主将、言語学読書会主事、留学生支援するグループ活動などにも積極的に参加していました。今から考えると、本当に様々な下位文化について学んだと思います。私は学内のような狭い環境だけで何かやることには満足出来なかったので、アルバイトが実社会との接点を与えてくれました。まず学内で、夏休みに 掃除その他、管財業務のアルバイトをしました。大学で公衆トイレ清掃もしていると母に告げると、自分の家のトイレの掃除もしたことがないのにと笑われました。一生このような仕事をしている人の中に混じって働いたわけですが、下位文化に触れる非常にいい機会になりました。この時の経験が、アメリカで大学院で勉強している折に、役に立つとは思いも寄りませんでした。一つ今でもはっきり覚えていることがあります。男子のトイレを掃除してみて、ガムや吸殻などを投げ込むのは止めようと思ったことです。掃除をする人は大変ですから、皆さんも気を付けて下さい。アルバイトの種類もいくつか変わりました。学生運動をしていたせいで、大学院で政治学を勉強していた知り合いのおじさんから、三鷹市長選挙を手伝ってほしいと言われたのです。鈴木平三郎という現職革新市長で、四期目か五期目だったと思いますが、再選選挙運動を三ヶ月手伝う仕事でした。私が、市長に会わせてくれて、自分が支持できると思ったら、手伝いますと言うと、市長が本当に市庁舎に呼んでくれ、自分の市政について説明してくれました。その時に非常に感心したのは、北欧訪問した折にヒントを得て、住民から苦情の出やすいし尿処理場を市庁舎の地下に造ったことです。私は即座に手伝うことを承諾しました。選挙事務所住み込み、三食付、飲みに行けば、支援者の飲み屋でただ酒を飲ませてくれたり、地方選挙の現状を実地で学ぶ機会になりました。結局再当選を果たしたので、こちらも大満足でした。もう一つ異文化の経験としては、やはり夏休みに東京の下町で、トラックの運転手をしたことです。今から考えるとずいぶん無謀なことをしたと思いますが、運転免許を取って十日目に、八丁堀にある日の出運送という運送会社で夏の運転手のバイトを始めました。始めた直後、倉庫で、バックして、トラックを積荷にぶつけてしまい、「プロの運転手が何をしているんだ」と 怒鳴られました。それ以後は、十分気をつけて対応しましたが、その怒鳴った人はそれから非常に可愛がってくれたのを覚えています。銀座商店街配送に行った時など、運転手の目線で銀座を見ることが出来たのは、面白い異文化体験でした。青森から来ている本職の運転手がとても気に入ってくれ、色々 引き回してくれ、これもいい勉強になりました。浅草のロッテに配属になった時は、会社の仕事を業務の観点から見る機会があって、ホワイトカラー以外の視点も身に付けたと思います。ここでも業務課長高堀さんという人が本当に良くしてくれました。人生どこに行っても誰かに助けられていると思います。他にもエピソードは沢山ありますが、このような実社会の経験はまさに異文化経験でした。皆さんにもぜひお勧めします。
交換留学
大学一年が終わった春休みに母校の国際基督教大学と韓国の延世大学との交換協定基づいた、二週間の韓国留学に参加。初めての外国への旅となりました。今でこそ韓国ブームで大勢の人が韓国を訪れますが、1967年の状況は、朝鮮戦争が終わってまだ十二年、南北の緊張はまだぴりぴりしていた時代です。 総勢、教授四名・学生二十名でした。汽車で下関まで行き、関釜連絡船玄界灘を渡り釜山入港。ソウルに行く急行に乗るまで大分時間があったので、釜山で自由行動。教育に興味があった私は、早速水晶小学校という学校を見付けて職員室に飛び込みました。事情を説明すると、先生三人が対応してくれました。初めは英語で話していたのですが、途中で、日本語で話していいかと言われたので、日本語で詳しく話すことが出来ました。私は先生方に、反共教育をしていることに教師としてどう感じているか聞いたのですが、彼らは、自分たちも、本当はやりたくないが、現在の政治情勢では仕方がないと本音を聞かせてくれました。お礼を言って帰る時に、「ソウルに行ったら、こんな質問はしない方がいいよ」と警告してくれたのが今でも印象に残っています。ソウルでは、ホーム・ステイで延世大学学生の家に厄介になりました。両親は自分の息子のように扱ってくれ、日本では薄れてしまったホスピタリティーに感激しました。延世大学も学長 主催の晩餐会、韓国の政治経済に関する講義、国連軍墓地献花、この時は陸海空軍閲兵があり、まさにVIP 待遇でした。あまりに食事がおいしくて、食べ過ぎたせいか、体調を崩したために、慶州への旅行には参加せずにソウルにいることにしました。他にも二人、一人はオーストリアからの女性の留学生でした、ソウルに残ったメンバーがいたので、アメリカからの観光客板門店へのバスツアーに参加することにしました。ここでは、アメリカ軍の食堂で昼食をし、北朝鮮の将校行進間近に見案内役のアメリカ軍将校が、38度線の北を指差して、あそこに橋が見えるだろう?あの橋は「帰らざる橋」と呼ばれていて、あそこを渡ったら、絶対に帰って来られないんだと説明してくれました。帰りに、門衛の黒人の兵士にどう?と聞くと、自分はベトナムに送られなくて幸運だったと答えたのが非常に印象的でした。その時は、それから五年後にベトナムに行くとは夢にも思っていなかったので、何か伏線があったのかなと後で考えたりしたものです。異文化交流の実地はやはり国際交流でしょう。実は、こういう機会を学生に与えたいということで、前獨協大国際交流課長の安西氏と語らって、ヨーク大との交流協定を結んだのは私です。もう十五年ほどになりますが、毎年、ヨークの学生がこちらに来ていますし、獨協大学からも一年間の留学生がヨークに来ています。学生時代にこういう経験をすることは、人生でかけがえのない経験になります。ぜひお勧めします。
交友関係
大学生活の中で、もう一つ大切な分野は、交友関係だと思います。友人はやはり切磋琢磨するために大切な存在です。部活などを通じて友達を作ることも大事ですし、先生方と知り合いになり、教えを請うことも必要ですが、私は敢えて、男女関係について、話したいと思います。実は、このトピックに関しては昨年お話したので、出来るだけ重複避けたいと思いますが、これは 避けて通れないトピックです。私見ですが、大学時代は異性について学ぶ絶好の機会です。異性の文化はやはり下位文化でしょう。社会に出てしまうと、選択範囲が非常に狭くなります。これは「恋をしなくなった若者たち」という題で、ウエッブにも載せてありますが、最近の学生に聞いてみると、恋愛相手を持っている人が非常に少ない。先ほど言及したように、統計の結果もこれを証明しています。先日、テレビに作家の渡辺純一氏が出ていて、若者にアドバイスをしていましたが、気になったことは、マニュアル的に出来るだけ大勢の女性にアタックしろなどと言っているのです。私は、これには全く反対です。個として魅力のない人間がいくら声をかけてもうまく行くはずがありません。まず自分を磨くことから始める必要があります。では何から始めたらよいか。私は、どんな小さなことでも全力投球して頑張ることを勧めます。これをコミットメントと言い換えてもよいでしょう。どんなことでも一生懸命やっている姿は魅力的でかっこいいものです。 弁護士裁判官法廷で、医師や看護士は病院で、牧師は教会で、教師はクラスで、スポーツ選手は試合で、一番魅力的に見えます。なりふり構わず何かに打ち込んでいる姿を見て、魅力を感じる人は結婚相手としても真面目な人でしょう。例えば、クラブやグループ活動などで、他の人のために一生懸命やっている人は爽やかで、魅力的な人が多いと思います。またそういう人は、自然にリーダー格になっていくので、ますます魅力が出てきます。勿論本人も自信をつけてきます。結局、異性が惚れて くれるように自分を鍛える・磨くことが最高の相手を見付ける近道だと思います。最近の日本人の中には、このような颯爽とした人を見かけなくなりました。私は、颯爽の美学と呼んでいますが、それは自然に出てくるかっこよさだと思います。さて、相手を見付けたら、異文化間コミュニケーションが始まります。私の場合は、これまでお話してきた成り行き上、中国人留学生及び韓国人留学生のガールフレンドができて、本当の異文化間コミュニケーションになりましたが、学ぶことが非常に多かったです。彼女たちは、やはり個として魅力があったと言えます。女性として大人であり、真摯にぶつかってくれ、情熱的で、特に、変化の落差が大きいことに 魅かれました。ただこういう女性と付き合うと、男性の方も頑張らなくてはなりません。
就職試験・失恋・家出
中国人の彼女との結婚を前提就職戦線半ばに大学の就職部に飛び込み、就職活動を始めました。現在も就職難ということですが、私の時も大変だったようです。大手会社は化学関係の日本油脂とライオン油脂の二つしか残っていなかったので、応募することにしましたが、就職することなど全く考えていなかったので、全くの準備不足でした。一次試験は両社とも英語と経済か法律の筆記試験で した。経済も法律もやっていなかったので、両社の人事課に相談に行くと、「当社はこれから海外に支社を造る予定なので、あなたの様な人に来てもらえると助かります。どちらかというと、経済と法律のどちらがやりやすいですか。」と聞かれたので、経済と答えると、「それでは、経済用語集というのがありますよ ね。一夜漬けでいいですから、勉強して下さい。後はこちらで考慮しますから。」ということで、ああこれは大丈夫だなという予感がありました。そのころの競争率は 80倍でした。一社は800人の応募者で10人採用、もう一つは1600人応募で20人採用でした。一次試験の結果を見に行くと、やはり両方受かっていました。親切にしてくれた人事課の人にばったり会うと、「英語は満点でしたし、経済の方も結構よく出来ていましたよとのこと。二次の面接に臨みました。面接には、採用者の2倍採っていました。あの当時は、尊敬する人物など、今では聞かれない質問が沢山ありました。面接には、会長・社長・重役それに質問をする課長クラスの人が全部で12人ぐらいいたと思います。私は支持政党 は当時の社会党、尊敬する人物は社会党の委員長の成田知巳と答えました。なぜですかと聞かれたので、成田知巳は豪農の息子として生まれながら、社会主義運動に 身を挺して労働者のために戦っているからと答えました。そのころは言語学に関しては、それほど知られていなかったので、言語学というのはどういう学問ですかと聞かれたので、機械翻訳など、大風呂敷を広げて話した記憶があります。面接は一時間ほど続いたように思いますが、とても感じのよい対応だったので、これは大丈夫だなと思いました。終わって待合室に戻ると、みんな学生服を着て-当時は面接には学生服で行かなければだめだという雰囲気で した-誰も話さずに座っていました。おしゃべりな私は、皆に支持政党について聞かれただろうと聞くと皆が、訊かれた訊かれたということになって、彼らの答えを聞くと、自民党と民社党が半分ずつでした。それで、皆に本当に支持しているのかと聞くと、笑われてしまいました。お宅はと聞かれたので、社会党と答えると、また皆に笑われました。全員嘘をついているのです。私は面接で学生運動をやっていることも話しました。何故かと言うと、当時は、会社は興信所調査員雇って応募者の個人情報集めをしていたのです。友人から、電話がかかってきたから、よく言っておいたよと言われました。それに、企業の重役になるような人たちは、 海千山千のつわもので、何百何千人の面接をしているはずですから、嘘をついても直ぐ見破られます。また、学生運動でなんであろうと、リーダー格であったことも評価してくれたのだろうと思います。後は、大学の評価と英語力だったでしょう。私がなぜ、この話を詳しくしたかというと、皆と同じことをやっていてはだめで、個であることがやはり必要なのです。内定は、 電報で両社から同じ日に来ました。どちらに決めるか困って、就職部に相談に行くと、本当はどちらに行きたいか聞かれ、また電報が先に日本油脂から来たので、日本油脂に決めた次第です。後でライオン油脂から就職部に連絡があり、回答に非常に困ったとのことでした。ところが、大きな問題が起きました。香港に帰っ た彼女は、父親の大反対に会い、アメリカへの留学を決意して日本に戻って来たのです。結局失恋して、結婚する理由がなくなったため、内定していた会社に「事情により内定を取り消させていただきます。」というような手紙を送って、大学の事情に詳しい友人に休学手続きを頼んで、車で、だいぶ遅れた家出を決行 しました。落ち着いたら、連絡するという置き手紙を残して、出奔。親にはだいぶ心配をかけましたが、自分は真面目でした。誰も知っている人のいないところで一年間自活するというのが、目的でした。日韓条約締結反対のデモで、東京駅の構内に入り新幹線のホームを占拠した時、動労の組合員に、いっしょにやろうと声をかけたら、「あんたらには生活がかかっていないじゃないか。」との答えが返ってきたのが、痛切に身にしみたのがきっかけの一つでした。卒業を控えて、自分で何が出来るのか、独りで食って行けるのかと自分に問い掛けてみて、その経験のないことが一番こたえました。もちろん失恋の痛手も大きかったし、結婚を予想しての、予定してなかった就職であったので、大いに嫌気がさしていたのも事実です。にっちもさっちも行かなくなっての夜逃げと言った方が当たっていたかもしれませんが、意を決してからは非常に気持ちが楽になりました。大学では、毎年ストの続いた時代で、それにも嫌気がさしていました。
夜中の二時ごろそっと家を抜け出し、ゆっくり東海道を大阪に向けて走りました。別に急ぐ旅ではなかったので、大阪に着いたのは、夕方近くになっていました。さて、西も東も分からない大阪でどうするか。初めに着いたところは、日本橋、恥ずかしい話です が、大阪に日本橋、にっぽんばしと読む、があることさえ知らなかったのです。何しろ、高校の修学旅行で一度来たことがあるだけだったのですから。ちょうど、恵比寿祭り、えべすさんと呼んでいた、の時で、界隈はにぎわっていたように思います。まず、腹ごしらえをして泊まるところを探さなくてはと、近くの中華料理屋に飛び込んで。そこの マスターに、大阪は初めてなので、どこか安くてきれいな泊まる所はないか尋ねると、「ちょっと待ってな。一緒に行って上げるから。」と非常に親切な人で、えべすさんのすぐ側のビジネスホテルへ案内してくれました。今でこそ東京にもビジネスホテルなるものがたくさんありますが、そのころはまったくなかった時 代です。まさに安くてきれいなホテルでした。人が親切なことと、合理的な生活スタイルにまずよい印象を受けました。その晩はぐっすり眠って、次の朝食堂で朝食を取りながら、 おもむろに新聞の求人覧目を通しました。大阪に来た理由の一つは、日本第二の大都会であれば、トラックの運転手の仕事ぐらいはかなりあると思ったからですが、はっと目にとまったのが、「日の出運送」という名前でした。夏休みに、東京の八丁堀で働いていたのも「日の出運送」だったので、これも何かの縁と早速電話をかけることにしました。「日の出運送」という名は日本全国には掃いて捨てるほどありますが、何か>運命のいたずらを感じたのです。
電話をかけて、社長に、ありのままを話し、学生で一年しか働けないが、と言うと、すぐ面接に来いとのこと、場所を聞いて早速出かけることにしました。行ってみると、そこは旭区にある京阪森小路駅の近くの小さな運送会社で、運転手も十人ほどしかいないようでした。社長は苦労人で、話を聞いて、すぐ雇ってくれ、明日から来るようにと言ってくれました。住むところはあるのかと聞かれたので、これから探すところだというと、社長の家に下宿してもいいと言ってくれましたが、それではあまり甘え過ぎていると思い辞退すると、汚くてよければ、夜の電話番をする条件で、車庫の上の部屋に家賃無しで住んでいいとのこと、早速好意に甘えました。こうして、大阪での一年間のトラックの運転手稼業が始まったのですが、自分独りで何かをしたというより、結局多くの人に助けられて、自分の我侭を通させてもらったというのが本当のところです。東京の人間にとって、大阪はまさに異文化で、町の中から、生駒山が見える環境、地名が読めないこと、親密な 人間関係、商人の町、というように、異質なものが多く、振り返ってみて、異文化間コミュニケーションは、日本で始めるべきだと皆さんに話してきました。大阪での一年足らずの経験は、私の人生の中で、一人で何とか食べて行けるという自信が少しついたこと、また、皆に助けられて生きて行かれるということも学ん だように思います。危なかった経験もいくつかありましたが、心身ともに一回り大きくなって東京に戻ったと思います。(注 この章の一部分は「遅れた出奔」という題で三年の教材に使われている。) 
日本語教授法
大学に復学して、卒論しか残っていなかったので、日本語教授法を取ることにしました。授業を受け初めて、三週間目ぐらいに教授の小出詞子先生に呼ばれました。あなたは午前中授業がないんでしょう。それなら、毎日午前中、六本木にある海外宣教師のための日本語学校で教えなさいとのこと。日本語教授法は取り始めたばかりだし、教えた経験は家庭教師で高校生に英語を教えただけなので、先生、ちょっと無理ですと答えると、あなたは専攻が言語学だから、大丈夫よと言われ、早速、カトリックの神父修道女に日本語を教えることになってしまいました。これがきっかけで、日本語教育に入ったわけですが、全くの経験なしに現場、しかも色々な意味での異文化-学習者は世界中から来ていましたし、カトリックの世界でもありました-に投げ込まれ、一生懸命やらざるを得ませんでした。それだけでなく、それまで勉強してきたことが、やっとはけ口が見つかったという感じで、教えることがこんなに楽しいものかを実感することが出来ました。結局卒業してからも、常勤で残ってほしいとディレクターに言われ、日本語教師としての第一歩を踏み出すこ とになりました。人生至る所に青山ありで、どこに機会が転がっているか分りません。この年の九月に今の家内が、カナダからプロテスタントの宣教師として来 日し、この日本語学校で六ヶ月間の日本語研修を始めたのですが、授業の初日に家内のいるクラスに入った途端、家内が私と結婚することを決意したために、そのあと六ヶ月で電撃結婚、十月には、小出先生の推薦で、戦争中のベトナムのサイゴン大学に政府の仕事で日本語指導に出かけることになったのです。この間の経緯は割愛しますが、これらは、先ほど話したように全力投球で仕事をした結果だと思います。
外国語のコミュニケーション能力
さて、これまで私の大学時代の異文化体験についてお話してきましたが、英語が話せたことが異文化間コミュニケーションを可能にしたことは言うまでもありません。香港出身の中国人の彼女とはほとんど英語で話していましたし、家内と会った時も、後で家内が、日本人の中であなたが一番英語が上手だったと述懐し ていたように、英語でのコミュニケーション能力が大きな役割を果たしていることが分ります。以前獨協大学で外国語習得のノウハウの話をしたことがありますが、これからの世界は、外国が二つ以上話せないとだめだと思います。私が教員研修をしているキューバのハバナ大学外国語学部では、専攻の第一外国に六年間 で四千時間、第二外国語に二千五百時間、第三外国語に千二百時間費やしています。外国にほとんど行ったことがない教員も、二つの外国語を教え、かなり堪能で す。日本の状況と較べると、将来が恐ろしくなります。具体的な学習法については、またの機会にしますが、やはり、個が確立されていないと、外国語習得は不可能です。以前オーストラリアのメルボルンにあるモナシュ大学に招かれた時、当時の学科長、チェコ人のネウストゥプニー教授が外国語習得は結局異文化間コ ミュニケーションだと口癖のように言っていましたが、私も自分の経験から、全く賛成で、外国語学習に含まれるディシプリン「学理」は異文化間コミュニケ-ションと規定して、日本語はそのための素材という考えで日本語を指導してきました。外国語学習は異文化間コミュニケーションの能力を養うためには最高の課程であると思います。
結語
今日は学生さん対象のお話ということでしたので、学生の目線で自分の学生時代を異文化理解という観点から振り返ってみて、いくつかのエピソードについてお話しました。話の要点は、すでに先人たちが言っていることばかりだと思いますが、自分がそれをどう人生に取り入れて行ったかという部分は借り物ではないの で、一個人の軌跡として聞いていただけたら幸いです。勿論今回のお話は、出発点に立ったところで、この後、ベトナム、日本、ニュージャージー、メルボルン、ミシガン、トロントと移動したので、今後続きを異文化間コミュニケーション実践編という形でお話してゆきたいと思っています。興味のある方はぜひまた御参会下さい。つたない個人の経験について我慢して聞いて下さってありがとうございました。最後になりますが、招待して下さった町田先生に御礼申し上げます。

注 石川啄木(いしかわたくぼく)「時代閉塞の現状」青空文庫 link
© Norio Ota 2009