ヨーク大学日本語科四学年読解教材
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「ホメオスタシス」
大学の学部時代に一般教養のコースとして生化学をとったことがある。高校時代に生物も化
学もとったのだが、どちらかというと物理が一番好きであった。特に放射性物質の半減期な
どに興味を覚え、一時は原子物理か天体物理を専攻したいなどと大それたことを考えたこと
もあるほどである。大学での生化学のコースは一般教養とはいえ、今でいう学際分野の走り
で、教授も自分の研究を授業に盛り込んでくれ、他の学生はかなりが居眠りをしていたが、
私は、それまでまったく無関係に見えた生物と化学の接点の話に目から鱗が落ちる思いで、
講義を聞いていた。特に興味をそそられたのは、ホメオスタシスという概念で、図書館に行
ってかなり調べ、小論文もこれについて書いたので、今でもはっきり記憶しているが、生体
はその生存期間のどの段階をとっても、その時点での最高の水準を保とうとする傾向がある、
それをホメオスタシスと呼ぶ。生体の新陳代謝はその年齢とともに変化するが、生体は一生
のどの時期をとってもその制約内で最大限効率的に機能するということである。生命現象は
未だに謎であるが、細胞を基にする生体が、ただ単にその総和によるのではなく、何らかの
相乗効果、ないしは、「量子力学的な飛躍」により、生体を全体論的に維持していく力が、
ホメオスタシスと言える。この概念は、後になって、脳に投影された文法のシステムについ
て考える時にずいぶん参考になった。
言語学の究極的な目的の一つは、この文法を解明することであると言えるが、文法が体系と
して脳細胞に組み込まれているとすると、ホメオスタシスは、細胞組織のみならず、文法体
系のレベルでも機能していると考えられる。文法も広義の意味での有機体の一つである。有
機体とは、個々の部分が集まって全体を構成し、その構成要素間に何らかの連関性と規則性
があり、全体として個々の部分の集合以上の働きをする組織体と考えていいだろう。これは
1+1が2でなく3にも4にもなる世界である。このような考えを言語習得に当てはめて考えてみ
ると、次のようなことが言える。言語習得の分野での研究から、言語の発達は、直線的なも
のでなく、組織体としての「中間言語」群を通して獲得されていくことが分かっている。個々
の中間言語は組織であるから、それが機能している間は、その制約内で最大限機能しようと
する傾向、すなわちホメオスタシス、が働いていると考えられる。ところが、色々な新しい
情報に接してその組織自体が機能しなくなる時点、臨界期、に達すると、そのような情報や
刺激に対応できる組織に止揚する。当然この臨界期に達するまでは、色々な改訂、置換、そ
の他の改竄の過程が繰り返されるが、改良だけでは対応しきれなくなって初めて、次のレベ
ルの組織に「投射」されるのである。これが新しい中間言語である。この過程を繰り返して、
言語習得が進んでゆき、中間言語は脳の中に層として蓄えられていると考えられる。よく使
われる例として、大人が幼児と話す時にいとも簡単に幼児語に戻れることや、意識的にはま
ったく日本語を知らない日系アメリカ人の被験者が、退行催眠による実験で、六歳ぐらいに
戻ったとたん、べらべら日本語を話し出し、よく調べてみると、ちょうどその年齢の時に、
戦時中の強制収容所で日本語を話すおばさん達に囲まれて育ったことが分かったことなど、
興味深い報告がなされている。よく言語習得は、直線的に向上せず、台地的に進むといわれ
るのも、このように考えると説明がつく。
第二言語習得の場合も、確かに中間言語の存在と、ホメオスタシス的力が働いていることを
暗示するような現象が観察される。筆者の経験でも、例えば、英語の関係節について色々学
び、練習もしたが、なかなか使えるようにならなかったのが、ある日突然、非制限用法の関
係節が、すっと口を突いて出るようになり、それ以後、他の関係節も非常に自然に出てくる
ようになった。そればかりでなく、その時期を境に、英語での発話能力も急に伸びた気がし
たのである。第二言語習得の分野では、こういうことに関連して、どの時期にどのような入
力[インプット]、を与えれば、効果的に受け入れ[インテイク]が起きるか、それには順位が
あるのではないか、などの研究が盛んに行われてきた。その他、右脳と左脳の役割の相違や、
学習者の性向が言語習得に与える影響など非常に興味のある観察が行われている。
さて、教える立場の人間としては、このような様々な研究成果を踏まえて、言語指導を行う
わけであるが、短期間にどのような入力を与えれば、効果的な受け入れが促進され、1+1が
5になり10になるような相乗効果を狙うことができるかというのが一番大きな課題であろう。
これは習得の面だけでなく言語運用の面でも同じことが言える。いわゆるコミュニカティヴ・
アプローチは、運用面での最大限の相乗効果、すなわちホメオスタシスを促進するための指
導法であると、私は思っている。当然それはできるだけ早く言語組織の次の臨界期に達する
速度を速め、次のレベルの中間言語への早期到達を可能にするはずである。世の中には、第
二言語を第一言語と同じように習得できる臨界年齢以後でもほぼ完全な多言語習得者になる
人が約八パーセントぐらいいるという数字が出ていたと思う。彼らがどのように多言語を習
得したかを解明することによって、我々が学ぶことは多い。ひょっとすると、彼らは上に述
べたようなことを無意識のうちにやっているのかもしれない。
2000年12月16日
トロントにて
太田徳夫
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[語彙]
ホメオスタシス homeostasis
学部時代 がくぶじだい undergraduate days
一般教養 いっぱんきょうよう general education
生化学 せいかがく bio-chemistry
高校時代 こうこうじだい high school days
生物 せいぶつ biology
化学 かがく chemistry
物理 ぶつり physics
一番 いちばん best
特に とくに particularly
放射性物質 ほうしゃせいぶっしつ radioactive material
半減期 はんげんき decaying period
興味 きょうみ interest
興味を覚える きょうみをおぼえる take an interest in
原子物理 げんしぶつり nuclear physics
天体物理 てんたいぶつり astrophysics
専攻(する) せんこう major
大それた inordinate, audacious
考える かんがえる consider
学際分野 がくさいぶんや interdisciplinary field
走り はしり the first, beginning
教授 きょうじゅ professor
自分 じぶん self
研究(する) けんきゅう research
授業 じゅぎょう class
盛り込む もりこむ incorporate
居眠り(する) いねむり snooze, doze
無関係(な) むかんけい no relation
接点 せってん contact point
目から鱗が落ちる めからうろこがおちる scales come off one’s eyes
講義(する) こうぎ lecture
興味をそそる arouse a person’s interest
概念 がいねん concept
図書館 としょかん library
調べる しらべる examine
小論文 しょうろんぶん essay
記憶(する) きおく remember
生体 せいたい living body
生存期間 せいぞんきかん life span
段階 だんかい stage
時点 じてん point in time
最高 さいこう highest
水準 すいじゅん level
保つ たもつ maintain
傾向 けいこう tendency
新陳代謝 しんちんたいしゃ metabolism
年齢 ねんれい age
一生 いっしょう one’s whole life
時期 じき time, season
制約内 せいやくない within the limitations
最大限 さいだいげん maximally
効果的(な) こうかてき effective
機能(する) きのう function
生命現象 せいめいげんしょう phenomena of life
未だに いまだに not yet
謎 なぞ riddle
細胞 さいぼう cell
基 もと base, foundation
基にする base
単に たんに simply
総和 そうわ sum total
相乗効果 そうじょうこうか synergistic effect
量子力学的飛躍 りょうしりきがくてきひやく quantum leap
全体論的(な) ぜんたいろんてき holistic
維持(する) いじ maintain
力 ちから strength
脳 のう brain
投影(する) とうえい project
文法 ぶんぽう grammar
参考 さんこう reference
言語学 げんごがく linguistics
究極的(な) きゅうきょくてき ultimate
目的 もくてき goal, purpose
解明(する) かいめいする elucidate
体系 たいけい system
脳細胞 のうさいぼう brain cell
組み込む くみこむ incorporate
細胞組織 さいぼうそしき cellular tissue
文法体系 ぶんぽうたいけい grammatical system
広義 こうぎ broad sense
意味 いみ meaning
有機体 ゆうきたい organism
個々 ここ individual, each
部分 ぶぶん part
集まる あつまる gather
全体 ぜんたい whole
構成(する) こうせい form, compose
構成要素 こうせいようそ constituent
連関性 れんかんせい relevancy, connection
規則性 きそくせい regularity
集合 しゅうごう collective, set
以上 いじょう more than
働き はたらき function
組織体 そしきたい organization
世界 せかい world
言語習得 げんごしゅうとく language acquisition
当てはめる あてはめる apply
分野 ぶんや field
発達(する) はったつ develop
直線的(な) ちょくせんてき linear
中間言語 ちゅうかんげんご inter-language
群 ぐん group
通して とおして through
獲得(する) かくとく acquire
情報 じょうほう information
接する せっする be exposed
自体 じたい itself
時点 じてん a certain point of time
臨界期 りんかいき critical period
達する たっする reach
刺激(する) しげき stimulus
対応(する) たいおう react, respond
止揚(する) しよう sublation
当然(な) とうぜん natural
改訂(する) かいてい revise
置換(する) ちかん replace
改竄(する) かいざん alter
過程 かてい process
繰り返す くりかえす repeat
改良(する) かいりょう improve
初めて はじめて for the first time
投射(する) とうしゃ project
層 そう layer
蓄える たくわえる store, save
例 れい example
大人 おとな adult
幼児 ようじ infant
いとも without any extra effort
簡単(な) かんたん easy
幼児語 ようじご baby talk
戻る もどる revert
意識的(な) いしきてき conscious
日系 にっけい of Japanese descent
被験者 ひけんしゃ subject (of an experiment)
退行催眠 たいこうさいみん regressive hypnosis
実験(する) じっけん experiment
−歳 さい - old
べらべら fluently (blab)
年齢 ねんれい age
戦時中 せんじちゅう during the war
強制収容所 きょうせいしゅうようじょ internment camp
囲む かこむ surround
育つ そだつ be brought up
興味深い きょうみぶかい very interesting
報告(する) ほうこく report
向上(する) こうじょう improve
台地 だいち plateau
進む すすむ proceed, progress
説明(する) せつめい explain
第二言語習得 だいにげんごしゅうとく second language acquisition
場合 ばあい case
確か(な) たしか sure, certain
存在(する) そんざい existence
働く はたらく function
暗示(する) あんじ suggest
現象 げんしょう phenomenon
観察(する) かんさつ observation
筆者 ひっしゃ the writer
経験(する) けいけん experience
例えば たとえば for example
英語 えいご English
関係節 かんけいせつ relative clause
色々(な) いろいろ various
学ぶ まなぶ learn
練習(する) れんしゅう practice
突然 とつぜん suddenly
非制限用法 ひせいげんようほう non-restrictive use
口を突いて出る くちをついてでる blurt out
それ以後 それいご after that, since then
非常に ひじょうに extremely
自然(な) しぜん natural
境 さかい boundary
発話能力 はつわのうりょく ability of utterance
急(な) きゅう fast, sudden
伸びる のびる develop
関連(する) かんれん relation
入力 にゅうりょく input
与える あたえる give
受け入れ(る) うけいれ intake
起きる おきる take place
順位 じゅんい order
盛ん(な) さかん flourishing, vigorous
行う おこなう conduct
右脳 うのう right brain (hemisphere)
左脳 さのう left brain (hemisphere)
役割 やくわり role
相違 そうい difference
学習者 がくしゅうしゃ learner
性向 せいこう propensity
影響(する) えいきょう influence
立場 たちば standpoint
人間 にんげん person
様々(な) さまざま various
研究成果 けんきゅうせいか research result
踏まえる ふまえる based on
言語指導 げんごしどう language teaching
短期間 たんきかん short period of time
促進(する) そくしん accelerate
狙う ねらう aim
課題 かだい task
面 めん aspect
言語運用 げんごうんよう language use
同じ おなじ same
指導法 しどうほう teaching method
速度 そくど speed
速める はやめる accelerate
次 つぎ next
早期到達 そうきとうたつ early arrival
可能にする かのうにする make it possible
臨界年齢 りんかいねんれい critical age
完全(な) かんぜん perfect
多言語習得者 たげんごしゅうとくしゃ multi-lingual speaker
約 やく approximately
数字 すうじ figure, number
述べる のべる mention
無意識(の) むいしき subconscious
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© Norio Ota 2000