伊勢物語 (一)
一
むかし、をとこ、うひかうぶりして、平城の京、春日の里にしるよしして、狩に往にけり。その里に、いとなまめいたる女はらから住みけり。このをとこ、かいまみてけり。おもほえずふるさとに、いとはしたなくてありければ、心地まどひにけり。をとこの著たりける狩衣の裾を切りて、歌を書きてやる。そのをとこ、しのぶずりの狩衣をなむ著たりける。
かすが野の若紫のすり衣しのぶのみだれ限り知られず
となむおいつきていひやりける。ついでおもしろきことともや思ひけむ。
みちのくの忍ぶもぢずり誰ゆゑにみだれそめにし我ならなくに
といふ歌の心ばへなり。昔人は、かくいちはやきみやびをなむしける。
二
むかし、をとこありけり。平城の京は離れ、この京は人の家まださだまらざりける時に、西の京に女ありけり。その女、世人にはまされけり。その人、かたちよりは心なむまさりたりける。ひとりのみもあらざりけらし。それをかのまめ男、うち物語らひて、歸り來て、いかゞ思ひけむ、時は三月のついたち、雨そほふるにやりける。
起きもせず寝もせで夜をあかしては春のものとてながめ暮らしつ
五
むかし、をとこありけり。東の五絛わたりにいと忍びていきけり。密なる所なれば、門よりもえ入らで、童べの踏みあけたる築地のくづれより通ひけり。人しげくもあらねど、たびかさなりければ、あるじきゝつけて、その通ひ路に、夜毎に人をすゑてまもらせければ、いけどもえ逢はで歸りけり。さてよめる。
人知れぬわが通ひ路の關守はよひよひごとにうちも寢ななむ
とよめりければ、いといたう心やみけり。あるじゆるしてけり。
二條の后に忍びてまゐりけるを、世の聞えありければ、兄人たちのまもらせ給ひけるとぞ。
六
むかし、をとこありけり。女のえ得まじかりけるを、年を經てよばひわたりけるを、からうじて盗み出でて、いと暗きに來けり。芥川といふ河を率ていきければ、草の上におきたりける露を、「かれは何ぞ」となむをとこに問ひける。ゆくさき多く夜もふけにければ、鬼ある所とも知らで、~さへいといみじう鳴り、雨もいたう降りければ、あばらなる藏に、女をば奥におし入れて、をとこ、弓籙を負ひて戸口に居り。はや夜も明けなむと思ひつゝゐたりけるに、鬼はや一口に食ひてけり。「あなや」といひけれど、~鳴るさわぎにえ聞かざりけり。やうやう夜も明けゆくに、見れば率て來し女もなし。足ずりをして泣けどもかひなし。
白玉かなにぞと人の問ひし時露と答へて消えなましものを
これは、二條の后のいとこの女御の御もとに、仕うまつるやうにてゐ給へりけるを、かたちのいとめでたくおはしければ、盗みて負ひていでたりけるを、御兄人堀河の大臣、太郎國經の大納言、まだ下らふにて内へまゐり給ふに、いみじう泣く人あるをきゝつけて、とゞめてとりかへし給うてけり。それをかく鬼とはいふなりけり。まだいと若うて、后のたゞにおはしける時とや。
七
むかし、をとこありけり。京にありわびて、あづまにいきけるに、伊勢、尾張のあはひの海づらを行くに、浪のいと白く立つを見て、
いとゞしく過ぎゆく方の戀しきにうらやましくもかへる浪かな
となむよめりける。
九
むかし、をとこありけり。そのをとこ、身をえうなき物に思ひなして、京にはあらじ、あづまの方に住むべき國求めにとて行きけり。もとより友とする人ひとりふたりしていきけり。道知れる人もなくて、まどひいきけり。三河の國、八橋といふ所にいたりぬ。そこを八橋といひけるは、水ゆく河の蜘蛛手なれば、橋を八つわたせるによりてなむ八橋といひける。その澤のほとりの木の蔭に下りゐて、乾食ひけり。その澤にかきつばたいとおもしろく咲きたり。それを見て、ある人のいはく、「かきつばたといふ五文字を句の上にすゑて、旅の心をよめ」といひければ、よめる。
から衣きつゝなれにしつましあればはるばるきぬる旅をしぞ思ふ
とよめりければ、皆人、乾のうへに涙おとしてほとびにけり。
行き行きて、駿河の國にいたりぬ。宇津の山にいたりて、わが入らむとする道は、いと暗う細きに、つたかへでは茂り、もの心ぼそく、すゞろなるめを見ることと思ふに、修行者あひたり。「かゝる道はいかでかいまする」といふを見れば、見し人なりけり。京に、その人の御もとにとて、文書きてつく。
駿河なる宇津の山べのうつゝにも夢にも人にあはぬなりけり
富士の山を見れば、五月のつごもりに、雪いと白う降れり。
時知らぬ山は富士の嶺いつとてか鹿の子まだらに雪の降るらむ
その山は、こゝにたとへば、比叡の山を二十ばかり重ねあげたらむほどして、なりは鹽尻のやうになむありける。
なほ行き行きて、武藏の國と下つ總の國との中に、いと大きなる河あり。それをすみだ河といふ。その河のほとりにむれゐて思ひやれば、限りなく遠くも來にけるかなとわびあへるに、渡守、「はや舟に乘れ、日も暮れぬ」といふに、乘りて渡らむとするに、皆人ものわびしくて、京に思ふ人なきにしもあらず。さる折しも、白き鳥の嘴と脚と赤き、鴫の大きさなる、水のうへに遊びつゝ魚をくふ。京には見えぬ鳥なれば、皆人見知らず。渡守に問ひければ、「これなむ都鳥」といふをきゝて、
名にし負はばいざこととはむ都鳥わが思ふ人はありやなしやと
とよめりければ、舟こぞりて泣きにけり。
十
むかし、をとこ、武藏の國までまどひありきけり。さて、その國に在る女をよばひけり。父はこと人にあはせむといひけるを、母なむあてなる人に心つけたりける。父はなほびとにて、母なむ藤原なりける。さてなむあてなる人にと思ひける。このむこがねによみておこせたりける。住む所なむ入間の郡、みよし野の里なりける。
みよし野のたのむの雁もひたぶるに君が方にぞよると鳴くなる
むこがね、返し、
わが方によると鳴くなるみよし野のたのむの雁をいつか忘れむ
となむ。人の國にても、なほかゝることなむやまざりける。
十二
むかし、をとこありけり。人のむすめをぬすみて、武藏野へ率て行くほどに、ぬす人なりければ、國の守にからめられにけり。女をば草むらのなかにおきて、逃げにけり。道來る人、「この野はぬす人あなり」とて、火つけむとす。女、わびて、
武藏野はけふはな焼きそ若草のつまもこもれり我もこもれり
とよみけるをきゝて、女をばとりて、ともに率ていにけり。
十四
むかし、をとこ、陸奥の國にすゞろに行きいたりにけり。そこなる女、京の人はめづらかにや覺えけむ。せちに思へる心なむありける。さて、かの女、
中なかに戀に死なずは桑子にぞなるべかりける玉の緒ばかり
歌さへぞひなびたりける。さすがにあはれとや思ひけむ、いきて寝にけり。夜深く出でにければ、女、
夜も明けばきつにはめなでくたかけのまだきに鳴きてせなをやりつる
といへるに、をとこ、京へなむまかるとて、
栗原のあねはの松の人ならば都のつとにいざといはましを
といへりければ、よろこぼひて、「思ひけらし」とぞいひ居りける。