伊勢物語(二)
十八
むかし、なま心ある女ありけり。をとこ近うありけり。女、歌よむ人なりければ、心見むと て、菊の花のうつろへるを折りて、をとこのもとへや る。
紅ににほふはいづら白雪の枝もとをゝに降るかとも見ゆ
をとこ、知らずよみによみけ る。
紅ににほふがうへの白菊は折
りける人の袖かとも見ゆ
二十
むかし、をとこ、大和にある女を見て、よばひてあひにけり。さて、ほ ど經て、宮づかへする人なりければ、歸りくる道に、三月ばかりに、かへでのもみぢのいとおもしろきを折 りて、女のもとに道よりいひやる。
君がためた折れる枝は春ながらかくこそ秋のもみぢしにけれ
とてやりたりければ、返事は京に來著きてなむ持てきたりける。
いつの間にうつろふ色のつき ぬらむ君が里には春なかるらし
二十二
むかし、はかなくて絶えにけるなか、なほや忘れざりけむ、女のもとよ り、
憂きながら人をばえしも忘れねばかつ恨みつゝなほぞ戀しき
といへりければ、「さればよ」と いひて、をとこ、
あひ見ては心ひとつをかはし まの水の流れて絶えじとぞ思ふ
とはいひけれど、その夜いにけ り。いにしへゆくさきのことどもなどいひて、
秋の夜の千夜を一夜になずらへて八千夜し寢ばやあく時のあらむ
返し、
秋の夜の千夜を一夜になせり ともことば殘りてとりや鳴きなむ
いにしへよりもあはれにてなむ 通ひける。
二十四
むかし、をとこ、片田舎にすみけり。をとこ、宮づかへしにとて、別れ惜しみて行きけるまゝに、三年こざりければ、待ちわびたりけるに、いとねむご ろにいひける人に、今宵あはむとちぎりたりけるに、このをとこきたりけ り。「この戸あけたまへ」とたゝきけれど、あけで、歌をなむよみて出したりける。
あらたまの年の三年を待ちわ びてたゞ今宵こそにひまくらすれ
といひだしたりければ、
梓弓ま弓槻弓年をへてわがせしがごとうるはしみせよ
といひて、去なむとしければ、女、
梓弓引けど引かねど昔より心 は君によりにしものを
といひけれど、をとこかへりにけ り。女、いとかなしくて、しりにたちて追ひゆけど、え追ひつかで、清水のある所に伏しにけり。そこなりける岩に、およびの血して書きつけける。
あひ思はで離れぬる人をとゞめかねわが身は今ぞ消えはてぬめる
と書きて、そこにいたづらになり
にけり。
四十
むかし、わかきをとこ、異しうはあらぬ女を思ひけり。さかしらする親あり
て、思ひもぞつくとて、この女をほかへおひやらむとす。さこそいへ、まだおひやらず。人の子なれば、まだ心いきほひなかりければ、とゞむるいきほひなし。女も卑しければ、すまふ力なし。さるあひだに、思ひは
いやまさりにまさる。俄に親この女をおひうつ。をとこ、血の涙をながせども、とゞむるよしなし。率て出でて去ぬ。をとこ、泣く泣くよめる。
出でていなば誰か別れの難からむありしにまさる今日はかなしも
と読みて絶えいりにけり。親あわ
てにけり。なほ思ひてこそいひしか、いとかくしもあらじと思ふに、眞實に絶えいりにければ、まどひて願たてけり。今日の入相ばかりに絶えいりて、又の日の戌の時ばかりになむからうじていき出でたりける。
昔の若人は、さるすける物思ひをなむしける。今の翁、まさにしなむや。
六十二
むかし、年ごろおとづれざりけ
る女、心かしこくやあらざりけむ、はかなき人のことにつきて、人の國なりける人につかはれて、もと見し人の前に出で來て、物食はせなどしけり。夜さり、
「このありつる人たまへ」とあるじにいひければ、おこせたりけり。をとこ、「我をば知らずや」とて、
いにしへのにほひはいづら櫻花こけるからともなりにけるかな
といふを、いと恥づかしと思ひ
て、いらへもせでゐたるを、「などいらへもせぬ」
といへば、「涙のこぼるゝに、目も見えず、ものもいはれず」といふ。
これやこの我にあふみをのが
れつゝ年月ふれどまさりがほなき
といひて、衣脱ぎてとらせけれど、捨てて逃げにけり。いづちいぬらむとも知らず。
七十五
むかし、をとこ、「伊勢の國に率ていきてあらむ」といひければ、女、
大淀の濱におふてふみるからに心はなぎぬ語らはねども
といひて、ましてつれなかりけれ
ば、をとこ、
袖ぬれて海人の刈りほすわたつうみのみるをあふにてやまむとやす
る
女、
岩間より生ふるみるめしつれなくは潮干潮滿ちかひもありなむ
又、をとこ、
涙にぞぬれつつしぼる世の人
のつらき心は袖のしづくか
世にあふことかたき女になむ。
八十四
むかし、をとこありけり。身は
いやしながら、母なむ宮なりける。その母、長岡といふ所に住み給ひけり。子は京に宮づかへしければ、まうづとしけれど、しばしばえまうでず。ひとつ子にさ
へありければ、いとかなしうし給ひけり。さるに、十二月ばかりに、とみのこととて御文あり。おどろきて見れば、歌あり。
老いぬればさらぬ別れのありといへばいよいよ見まくほしき君かな
かの子、いたううち泣きてよめ
る。
世の中にさらぬ別れのなくも
がな千代もといのる人の子のため
八十六
昔、いとわかきをとこ、わかき
女をあひいへりけり。おのおの親ありければ、つゝみていひさしてやみにけり。年ごろへて、女のもとに、なほ心ざしはたさむとや思ひけむ、
歌をよみてやれりけり。
今までに忘れぬ人は世にもあ
らじおのがさまざま年のへぬれば
とてやみにけり。をとこも女も、
あひはなれぬ宮仕へになむ出でにける。
九十四
むかし、をとこありけり。いかゞありけむ、そのをとこすまずなりにけり。後に男ありけれど、子あるなかなりければ、こま
かにこそあらねど、時どきものいひおこせけり。女がたに、繪かく人なりければ、かきにゃれりけるを、今のを
とこのものすとて、一日二日おこせざりけり。かのをとこ、いとつらく、「お
のがきこゆる事をば、今までたまはねば、ことわりと思へど、なほ人をば恨みつべきものになむありける」とて、弄じてよみてやれりける。時は秋になむありける。
秋の夜は春日わするゝものなれや霞に霧や千重まさるらむ
となむよめりける。女、返し、
千ゞの秋ひとつの春にむかはめや紅葉も花もともにこそ散れ
百五
むかし、をとこ、「かくては死
ぬべし」といひやりたりければ、女、
白露は消なば消ななむ消えずとて玉にぬくべき人もあらじを
といへりければ、いとなめしと思
ひけれど、心ざしはいやまさりけり。
百七
むかし、あてなるをとこありけ
り。そのをとこのもとなりける人を、内記にありける藤原の敏行という人よばひけり。されど若ければ、文もをさをさしからず、ことばもいひ知らず。いは
むや歌はよまざりければ、かのあるじなる人、案を書きて、かゝせてやりけり。めでまどひにけり。さて、をとこ
のよめる。
つれづれのながめにまさる涙河袖のみひぢて逢ふよしもなし
返し、例のをとこ、女にかはり
て、
あさみこそ袖はひづらめ涙河
身さへ流ると聞かばたのまむ
といへりければ、をとこいといた
うめでて、今まで巻きて、文箱に入れてありとなむいふなる。をとこ、文おこせたり。得てのちの事なりけり。「雨の降り
ぬべきになむ見わづらひ侍る。身さいはひあらば、この雨は降らじ」といへ
りければ、例のをとこ、女にかはりてよみてやらす。
かずかずに思ひ思はず問ひが
たみ身をしる雨は降りぞまされる
とよみてやれりければ、蓑も笠もとりあへで、しとゞに濡れて惑ひ來にけり。
百二十三
むかし、をとこありけり。深草にすみける女を、やうやうあきがたにや思ひけ
む、かゝる歌をよみけり。
年をへて住みこし里を出でて
いなばいとゞ深草野とやなりなむ
女、返し、
野とならば鶉となりて鳴きおらむかりにだにやは君は來ざらむ
とよめりけるにめでて、行かむと
思ふ心なくなりにけり。
百二十五
むかし、をとこ、わづらひて、
心地死ぬべくおぼえければ、
つひにゆく道とはかねてきき
しかどきのふ今日とは思はざりしを