幸田露伴
「一口劔」
何が心配になって其様に浮かぬ顔せらるゝかと屢々女房に問はれて、是が苦勞のおもにと、ごろり、懷中より二十五兩づゝみ二つ投げ出せば、お蘭眼を丸くして急に手に取り上げ。如何な事、大金を粗怱にするとは勿體なし、然し餘りに不思議で肝が潰るゝ、マア是はどうして持つて歸られし、と膝すりよすれば。聞て呉れ、今日庄屋殿と一所に御家老さまの御屋敷に上つたれば、小時待たせられて、足のしびれを忍ぶ内、やがて恐れ入った事には立派な御座敷へ侍に案内されて通り、直々に一つ間で御目にかゝつて御用を伺へば、御家老様とは仁體よき中年の御方、御聲やさしく、日本一の刀鍛冶正藏とは其方かとの御尋ね、吃驚して疊に頭を埋め、正藏とは全く私の名なれど果敢なき鍬鍛冶、中々日本一など申すにはござなく、それはお人違ひなるべしと申したるに、コレあなたはなぜ其様に弱い事云はれし。イヤ、マア黙つて居よ。イヤイヤ辭退には及ばず、其方が業の當世に勝れて虎徹繁慶にもまさるべしといふ事まで告るものあつて殘らず御上にも御存知なり、扨わざわざ呼び寄せしも餘の義にあらず、上の御意なれば確とうけたまはれ、と云はれて、惣身に汗かきながら愈々恐れ入つて伺へば、我が領内にそれほどの名工あるを知らず、むざむざと零落れさせしは殘念なりし、急ぎ其者に命じて一ト振の新刀を作り出させよ。其れを功として取り立て得さすべしとの有り難き殿の御覺召なり、されども其方まづしくして、向ふ鎚にも仕事ある時だけあやしき近所の小僧を雇ひ居るといふことまで明白なれば、我に一切其方の都合よきやう取りはからひ得さすべしとの殘る方なき仰せなり、其方が相鎚に欲しきものの名を指せば直ちに此方より人をつかはし、江戸よりなりとも京よりなりとも掛け合つて迎ひ取るべし、又色々の入費もかゝるべければ、貧賤の其方迷惑ならむと即ち假りに五十兩下しおかるゝなり、尚日限百二十日を期して天晴れ業物を鍛ひ成すに於ては、十分の御褒美あるべき故、聢と覺悟いたし粗怱なきやう勵むべしとの御云ひ渡し。又庄屋に向はれては、正藏儀は大切の上の御用を勤むるもの故、其方十分に心付け便宜を與ふべし、事首尾よく成就せば其方には勿論御褒賞あるべしとの云ひ渡し。我は何とも云はぬ間に、あの庄屋めが一切我に代りて御受け申して歸つて来た夢みたやうな話し、と始終を語れば、お蘭が眼の周り、肩、口元、兩の頬、悦びの潮さして愛嬌の光り照りまさり、ひたひたと男に寄り近づき、くずれそうに無言で笑つて、堪へられずや、いきなり男の肩を突きこかし。是が何の苦勞、人を、人をぢらして嬉しい話を心配させながら聞かせて、こんなところで際どく女を嬲る、ホヽ、性悪な眞似をなさる、と額越しに睨む眼の中色気するどく、正藏花の香に酔へる鳥となつて後の聲を出しかぬる間に、女は金を神棚へあげて、勿論の事祝ひ酒買ひに戸外へ。
嬉しさを汲んで飲む喜び酒の廻り早く、少し亂れて膝の見ゆるも知らず前へずり出し、暗くなる燈火の心を簪でかきたて、ホヽ愈々運の開くる時節か此丁字頭の大きさ、と云へど亭主は見やりもせず黙然たり。私は最早これほど酔うたに、どうしたものぞ其眞面目さは、心持でも悪いなら藥買ってまゐりませうか、それともたゞ草臥れてなら横になり玉へ、腰なと叩くべし、と傍近く來て日頃には似ずやさしくさるゝも却つて今宵はつらく思ふ正藏、冷めたくなりし猪口を取り、女の頸に左の手をかけながら、ぐつと飲み乾して。心配するな、どうもせず、といへば、お蘭は其まゝ男の膝に我が頭を横にして載せつゝ片手で酒をついでやり、アヽ江戸を出てから初めて伸び伸びと氣がリれて胸の痞へも下つたやうな、是れからはたゞ叔母様を、立派になってから二人揃つて尋ねて驚かせ、むかしをわびて綺麗に許しを受け、又、おまへの親父様の勘當も許してもらひ、天下リれての戀中と古い友達に羨ませて萬年も樂しく、ホヽヽ殿様御臺さまで中よくくらすばかり、あヽ行末が見ゆるやうな、と眼を細くして、うとうととしかけ。アヽかうして居る間に眠うなる、わたしは今とろとろと溶けて行くやうな好い心持、と甘ゆるもの云ひの情濃くなづまれて、肉躍るほど可愛きにつけ悲しみ深く、ゑヽ無惨、何として我が腹中の苦しさを告げて、まづい事を此しほらしい耳に入れらるべきや、と思はずホロリと落とす涙、頬にかヽれば女房飛び起きて男にしがみつき、しけじけ顔打ちまもり。此方の人の隱しだては、恨めし、先刻よりの様子と云ひ、今の一雫は何處から出し熱いものぞ、心の底を何故女房には打明けられぬ、おまへのふところに此生命を投げ込んで居るわたしに餘所餘所しいはあまり酷し、云うて聞かされたとて善惡ともに後へ退かうやうな未練な惚れやうはせぬ女とはまだ思つて居られざりしかと纖小な身體を打ちまかせて口説き立つるに、亭主ますます堪へられず力任せに抱きしめて聲曇らせ。お蘭お蘭、ゆるして呉れ、惡い事は皆我に在り、云ひ出しかねては居たれどももう云はでは叶はぬ仕義、一ト通り聞いて我をそなたの思ふ存分にせよ。實は今日殿様よりの御言葉をうけて我が命は最早斷えたり。仔細は語るさへ耻かしきなれど、十日ばかり以前の夜、そなたに向つて我が云ひし事のどうしてか殘らず殿様の耳に入りしと見え、我を天リれの鍛冶と思ひ込まれての御恩命、あり難いは山々なれど悲しいには此腕が鈍くて、中々師匠を凌ぐほどの銘作の出來よう筈なく、御辭退申さうと思うても過ぎし夜の大言を知つて居らるれば云ひ譯けの無きに苦しみ居し内、庄屋めが御請けして仕舞つたれば其れを云ひ崩すだけの智惠は尚々出でず、ぐずぐずと大金まで頂戴して來たものゝ歸る道すがらも夢路を辿つて、草も木も眼には見えず、所詮良きものを作り出さねば大金迄戴きて置きて御上をいつはる罪重きお咎めに逢ふは必定、又我が腕前を有り體に申し上ぐるとも御上に虚言せしやう取りなさるれば是も御咎めを受くるは知れし事、腕さへおぼえあらば嬉しよろこんで随分と念を入れ鍛ひ成すべけれど、コレどうか許して呉れ、まことは先の夜そなたに云ひしは、惡い氣でせしにはあらねど、そなたの心をやすめようばかりに不圖出氣心でつい口走りし譯、元來は我鍛冶の道には十年の餘もたづさはつて精を惜まず勵み習ひ、法はあらかた知りたれど、性得不束にてとても天下に名ある鍛冶たちの中に出づべき程には至らず、よしや一念を籠めて作るとも人の眼はあざむき難き鏡、忽ち見あらはされて尚さら重き罰を受くべしと思へば、如何にとも仕方なし、此上は頂戴せし金を封のまゝ殘し置き、云ひ譯の書き置きをして、出奔するより外はなし、御慈仁深き殿様に對しても、御家老様に對しても、庄屋殿に對しても、そなたに對しても、合はすべきかおもなく出すべき言葉も知らず、自分ながら腑甲斐なき身を口惜くは思へど、正直のところは此始末、定めし愛想もこそも盡きたるなるべし、されどそなたに見はなされたりとも、それを恨める身ではなしと、つくづく我が愚を悟りたれば、我をすてて働きのある男をば見たて、行末長く榮えて呉れるがまだしも望みなり、さもあれば我は此世をやめて、山寺の坊主とも雲水の修行者ともなるべし、くれぐれもそなたに好い加減の事を云ひし罪は此苦しみにめんじてゆるして呉れよ、と涙ながらに長々しく語り終れば、お蘭は赤くなりくなり聞き居しが此時常にかへりて。なんの、水臭い、別れ話はやめて下され、誰が男を坊主にさせてよいものか、聞けば皆殿様が餘計なお世話、此處ばかりも日は照らず、手を引き合つて逃るに雜作はなし、なんのなんの、女房に亭主が云ひ譯には及ばず、ホヽ、氣を大きくして最少しお飲みなされ、あとの話は酒にあたたまつて寝てからと、膽の太い女かな、立ち上がつて戸締りをして來て座について、又一盃仰ぎ。ゑゝお星様の落ちたを見て薄ら寒くなった、チヨツ、何が何樣したつて、何樣なるものぞ、ホヽヽ惚れたが弱身で負けて遣る。