枕草子(二)
清少納言
[七十五] ありがたきもの 舅にほめらるる婿。また、姑に思はるる嫁の君。毛のよく抜くるしろがねの毛抜。主そしらぬ從者。
つゆの癖なき。かたち・心・ありさますぐれ、世に經る程、いささかのきずなき。おなじ所に住む人の、かたみに恥ぢかはし、いささかのひまなく用意したりと思ふが、つひに見えぬこそ難けれ。
物語・集など書き冩すに、本に墨つけぬ。よき草子などは、いみじう心して書けど、かならずこそきたなげになるめれ。
をとこ、女をばいはじ。女どちも、契りふかくて語らふ人の、末までなかよき人かたし。
[九十六] かたはらいたきもの よくも音彈きとどめぬ琴を、よくも調べで、心のかぎり彈きたてたる。客人などにあひてものいふに、奥の方にうちとけごとなどいふを、えは制せで聞く心地。思ふ人のいたく醉ひて、おなじことしたる。聞きゐたりけるを知らで、人の上いひたる。それは、なにばかりの人ならねど、つかふ人などだにかたはらいたし。旅だちたる所にて、下衆どもざれゐたる。にくげなるちごを、おのが心地のかなしきままに、うつくしみ、かなしがり、これが聲のままに、いひたることなど語りたる。才ある人の前にて、才なき人の、ものおぼえ聲に人の名などいひたる。よしとも覺えぬ我が歌を、人に語りて、人のほめなどしたる由いふも、かたはらいたし。
[九十七] あさましきもの 刺櫛すりて磨く程に、ものにつきさへて折りたる心地。車のうちかへりたる。さるおほのかなるものは、所せくやあらんと思ひしに、ただ夢の心地して、あさましうあへなし。
人のためにはづかしうあしきことを、つつみもなくいひゐたる。かならず來なんと思ふ人を、夜一夜起きあかし待ちて、暁がたにうち忘れて寢入りにけるに、烏のいとちかく「かか」と鳴くに、うち見あげたれば、晝になりにける、いみじうあさまし。
見すまじき人に、外へ持ていく文見せたる。むげに知らず、見ぬことを、人のさしむかひて、あらがはすべくもあらずいひたる。物うちこぼしたる心地、いとあさまし。
[二六八] 男こそ、なほいとありがたくあやしき心地したるものはあれ。いときよげなる人を捨てて、にくげなる人を持たるもあやしかし。おほやけ所に入りたちする男、家の子などは、あるがなかによからんをこそは、選りて思ひ給はめ。およぶまじからぬ際をだに、めでたしと思はんを、死ぬばかりも思ひかかれかし。人のむすめ、まだ見ぬ人などをも、よしと聞くをこそは、いかでとも思ふなれ。かつ女の目にもわろしと思ふを思ふは、いかなる事にかあらん。
かたちいとよく、心もおかしき人の、手もよう書き、歌もあはれに詠みて、うらみおこせなどするを、返りごとはさかしらにうちするものから、よりつかず、らうたげにうちなげきてゐたるを、見捨てていきなどするは、あさましう、おほやけ腹立ちて、見證の心地も心憂く見ゆべけれど、身のうへにては、つゆ心ぐるしさを思ひ知らぬよ。
[二六九] よろづのことよりも情あるこそ、男はさらなり。女もめでたくおぼゆれ。なげのことばなれど、せちに心にふかく入らねど、いとほしきことをば、「いとほし」とも、あはれなるをば「げにいかに思ふらん」などいひけるを、傳へて聞きたるは、さし向ひていふよりもうれし。いかでこの人に、思ひ知りけりとも見えにしがな、とつねにこそおぼゆれ。
かならず思ふべき人、とふべき人は、さるべきことなれば、とり分かれしもせず。さもあるまじき人の、さしいらへをもうしろやすくしたるは、うれしきわざなり。いとやすきことなれど、さらにえあらぬことぞかし。
おほかた心よき人の、まことにかどなからぬは、男も女もありがたきことなめり。また、さる人も多かるべし。
[三一九] この草子、目に見え心に思ふ事を、人やは見んとすると思ひて、つれづれなる里居のほどに書き集めたるを、あいなう、人のためにびんなきいひすぐしもしつべき所々もあれば、よう隱し置きたりと思ひしを、心よりほかにこそ漏り出でにけれ。
宮の御前に、内の大臣のたてまつり給へりけるを、「これになにを書かまし。上の御前には史記といふ書をなん書かせ給へる」などのたまはせしを、「枕にこそは侍らめ」と申ししかば、「さば、得てよ」とて賜はせたりしを、あやしきを、こよやなにやと、つきせず多かる紙を、書きつくさんとせしに、いとものおぼえぬ事ぞ多かるや。
おほかたこれは、世の中にをかしきこと、人のめでたしなど思ふべき、なほ選り出でて、歌などをも、木・草・鳥・蟲をも、いひ出したらばこそ、「思ふほどよりはわろし。心見えなり」とそしらめれ、ただ心ひとつに、おのづから思ふ事を、たはぶれに書きつけたれば、ものに立ちまじり、人なみなみなるべき耳をも聞くべきものかはと思ひしに、「はづかしき」なんどもぞ、見る人はし給ふなれば、いとあやしうあるや。げに、そもことわり、人のにくむをよしといひ、ほむるをもあしといふ人は、心のほどこそおしはからるれ。ただ、人に見えけんぞねたき。
左中將、まだ伊勢の守と聞えし時、里におはしたりしに、端のかたなりし疊さし出でしものは、この草子載りて出でにけり。まどひとり入れしかど、やがて持ておはして、いとひさしくありてぞ返りたりし。それよりありきそめたるなめり。とぞほんに。